Van Diemen's Landは、タスマニアが島であることが知られる前にヨーロッパ人が使っていた名称である。現在、タスマニアはオーストラリアの一州となっている。オランダの探検家アベル・タスマンは、ヨーロッパ人として初めてタスマニア島の海岸線を確認し、航海記録に残した。タスマンは、オランダ領東インドの総督であったアンソニー・ファン・ディーメン(Anthonie van Diemen)にちなんで、その土地を「アントーナイ・ファン・ディーメン・スランド」と名付けた(オランダ語の原表記はおおむね"Anthoonij van Diemenslandt"に相当する)。この命名は1642年の航海で行われ、以降ヨーロッパの地図や航海記録には「Van Diemen's Land(ヴァン・ディーメンズ・ランド)」として記されるようになった。
18世紀末から19世紀初頭にかけて、イギリス帝国は太平洋地域での拠点確保の一環としてこの島に関心を持ち、1803年に島の一部にイギリス人入植地を設けた。1803年、この島はイギリスが流刑地として開拓した。この島は「ヴァン・ディーメンズ・ランド」と呼ばれ、イギリスの植民地であるニュー・サウス・ウェールズ州の一部となった。初期のイギリス入植はリズドン周辺(1803年)やホバート付近(1804年にデイヴィッド・コリンズにより整備)に拠点を築き、以後大規模な流刑輸送とともに人口と経済が急速に変化していった。
1824年、ヴァン・ディーメンズ・ランドは、ジョージ・アーサーを初代総督とする独立した植民地となり、独自の行政体制が整えられた。アーサーの時代には厳格な刑罰と流刑制度が強化され、ポート・アーサーなどの主要な監獄・流刑施設が発展した。先住民族であるパラワ(Palawa、一般に「タスマニア先住民」)は、入植と土地収奪、衝突(いわゆる「ブラック・ウォー」)により甚大な被害を受け、人口は激減した。多くの先住民が1830年代にジョージ・オーガスタス・ロビンソンの指揮でフリンダーズ島へ移送されるなど、強制的な移住・同化の歴史が残る。
1840年代から1850年代にかけては、犯罪者輸送に対する反対の高まりと、流刑地のスティグマを払拭しようとする動きが進行した。流刑の最終期には輸送が縮小され、1853年ごろにはヴァン・ディーメンズ・ランドへの定期的な流刑輸送は事実上終了した。1856年、イギリスはこの地を「タスマニア」と改称したが、これは一部の地図に記載されていたり、何十年も前から地域住民が使っていた別名である。この名称変更は、植民地のイメージ刷新(特に流刑の悪名を薄めること)を意図した市民の要望の反映でもあった。同年末には植民地政府に対して自治(responsible government)が付与され、タスマニアは独自の議会を持つ自治領として制度化された。
その後タスマニアは1901年のオーストラリア連邦成立時に連邦の一州(ステート)となり、現在に至るまで独特の自然環境と歴史遺産を保っている。特にポート・アーサーなどの流刑関連遺跡はオーストラリアの有形文化遺産として注目され、Australian Convict Sitesとして世界遺産に登録されている場所も含まれる。近年は先住民の歴史と被害への認識・和解、植民地期の記憶の保存と観光資源化などが重要な社会課題となっている。

