ジョン・ジョセフ・"ブラック・ジャック"・パーシング陸軍大将(1860年9月13日~1948年7月15日)は、第一次世界大戦でアメリカ遠征軍を率いて活躍した陸軍大将です。第一次世界大戦でアメリカ遠征軍を率いた。パーシングは、アメリカ陸軍の最高位である陸軍大将に生涯昇進した唯一の人物である。その階級はGeneral of the Armies(陸軍大将)と呼ばれている。(1976年に通過した遡及的な議会命令により、ジョージ・ワシントンが年功序列で同じ階級に昇格した)。パーシングは、米国初の将校勤務番号(O-1)を持っています。彼は、第二次世界大戦中にヨーロッパでアメリカ軍を率いた世代のアメリカ人将校たちから、指導者としてみなされていた。ジョージ・C・マーシャル、ドワイト・D・アイゼンハワー、オマー・N・ブラッドリー、ジョージ・S・パットンなどである。

生い立ちと教育

パーシングはミズーリ州の農家の家庭に生まれ、若くして陸軍将校を志しました。アメリカ陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業(学年は1886年)し、以後長年にわたり陸軍に勤務して各地の前線や海外任務に従事しました。

初期の軍歴とニックネームの由来

初期は西部の前線勤務やインディアン戦争、さらに海軍・陸軍の海外任務に参加しました。特にアフリカ系アメリカ人部隊(いわゆる「バッファロー・ソルジャーズ」)と共に勤務した経験があり、そのことが「ブラック・ジャック(Black Jack)」というニックネームの一因になったとされます。後年、このあだ名は支持者にも敵対者にも使われ、時に皮肉や尊敬の念を含んで用いられました。

スペイン・米比戦争とフィリピンでの勤務

1898年のスペイン・アメリカ戦争ではキューバやフィリピンでの作戦に参加し、続くフィリピンでの反乱鎮圧(モロ戦争など)でも任務を果たしました。これらの経験が後の大規模部隊運用や海外派遣のノウハウ形成に寄与しました。

メキシコ遠征(パンチョ・ビジャ追撃、1916–1917)

1916年、メキシコでのアメリカ人襲撃事件を受け、パーシングは追撃隊を率いてパンチョ・ビジャを追いました(いわゆる「メキシコ遠征」)。遠征は最終的にビジャの捕捉には至りませんでしたが、装備・機動・国境を超えた作戦運用に関する重要な経験を得る機会となり、後の欧州派遣部隊(AEF)組織化にも影響を与えました。

第一次世界大戦とアメリカ遠征軍(AEF)司令官

1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、パーシングはアメリカ遠征軍(American Expeditionary Forces, AEF)の司令官に任命されました。彼は以下の方針を強く主張しました。

  • アメリカ軍は独立した指揮系統で作戦を行うべきであり、英仏軍の隷下に入れて小隊単位で分散使用されるべきではない。
  • 大規模な訓練と統一された補給・後方支援体制の確立が必要である。
  • 近代戦に対応した機械化、砲兵・航空支援の統合、通信・補給の整備を推進する。

パーシングのもとでアメリカ軍は急速に整備され、多数の師団がフランスに展開して連合国側で決定的な役割を果たしました。彼の指揮は組織運営、兵站(ロジスティクス)、訓練面で大きな影響を与えました。

階級・栄誉・晩年

戦後、パーシングは陸軍大将(General of the Armies)に昇進し、生涯でその階級にある唯一の人物となりました(後に1976年に議会の決議でジョージ・ワシントンが同格に位置づけられました)。また、米国初の将校勤務番号(O-1)を保持している点でも知られています。彼は多数の米国内外の勲章や名誉を受け、戦後は軍事・行政の高位職務や公的活動を続けました。

パーシングは回顧録や軍事に関する著述を残し、戦術・兵站・師団運用に関する知見は後の軍指導者たちにも受け継がれました。特にジョージ・C・マーシャル、ドワイト・D・アイゼンハワー、オマー・N・ブラッドリー、ジョージ・S・パットンといった第二次世界大戦期の将校たちは、パーシングを指導者・模範として高く評価しました。

死去と遺産

パーシングは1948年7月15日に死去し、国の追悼を受けて埋葬されました。彼の軍事的手法や組織運営の考え方はアメリカ陸軍の制度と戦略に深い影響を与え、20世紀の米軍発展における重要人物の一人とされています。

主な著作・資料

  • 回顧録(英語: My Experiences in the World War など)
  • 戦時・戦後に関する公文書、将軍としての演説や報告書

(注)本記事は主要な経歴・業績を概説したものであり、各期の詳細な作戦内容や個別の昇進・受勲については専門文献や一次資料を参照してください。