1830年のフランス革命は、7月革命とも呼ばれ、フランスのシャルル10世が政権から投げ出された出来事である。従兄弟のオルレアン公ルイ=フィリップが新たに国王として擁立され、いわゆる七月王政(Monarchie de Juillet)が始まった。しかしこの政権も永続せず、18年間の在位を経てルイ=フィリップは退位し、最終的に1848年のフランス革命で王政は再び動揺することになる。こうして王政のあり方は大きく変化し、ブルボン王朝の復古からオルレアン家への移行という政治的転換が確定した。

背景と原因

七月革命の背景には、ナポレオン戦争後の1814年の憲章による王政復古(ブルボン復古)と、それに対する自由主義的勢力・中産階級の不満がある。とくにシャルル10世は保守的・反動的な政策を強め、貴族や教会の権益回復を図った。1815年以降の政治的対立は次第に深刻化し、1830年にシャルル10世が議会の権限を削ぐ一連の勅令(いわゆる7月勅令、言論の自由の制限や選挙制度の改変など)を発すると、都市部の自由主義者や新聞、商工業者、労働者が一斉に反発した。

経過(「栄光の三日間」)

1830年7月、パリでは市民蜂起が勃発した。27日から29日にかけての三日間(Les Trois Glorieuses)は、市街地にバリケードが築かれ、群衆と政府軍の衝突が続いた。新聞やサロンで結ばれた自由主義者や共和主義者、職人・労働者が混在する形で抗議運動が広がり、最終的に王権側は抵抗を続けられなくなった。シャルル10世は退位を余儀なくされ、王家は国外へ脱出した(退位後は孫を後継者とする旨の表明があったが、政治的実権は移った)。

政治的変化と制度

七月革命の結果、ブルボン王朝の復古的体制は終わり、より中道・ブルジョワ的な七月王政が成立した。新政権は議会制を維持しつつも、選挙権は依然として財産資格(納税額)に依存する制限選挙であり、一般大衆の政治参加は限定的だった。1830年憲章(憲章の改正)は既存の憲章を修正して言論・出版の自由をある程度拡大したが、政治的な緊張は残った。ルイ=フィリップはフランス国王(King of France)ではなく「フランス人の王(roi des Français)」を自称し、君主の正当性を国民主権の観念に結びつけようとした。

派閥とその帰結

政権交代は王党派の分裂を生んだ。ブルボン家を支持する旧来の正統派(レジティミスト)はシャルル系の王位継承を主張し続け、オルレアン家を支持する者たちはオルレアン派として新政権を支持した。七月王政は当初は自由主義的・中道的に見えたものの、次第に財界と結びついて保守化し、労働者や共和派との対立が強まった。こうした蓄積が最終的に1848年の民主的な再動乱へとつながる。

意義と国際的影響

七月革命はヨーロッパ全体に影響を及ぼし、同時代の諸国における自由主義的・国民的運動の刺激となった。王政の形態が「王の権威」から「国民の代表に応答する王」へと変化し、立憲制とブルジョワ的政治の台頭を象徴する出来事として位置づけられる。ただし、選挙制の狭さや社会的対立は残り、七月王政が示した「穏健な変革」は根本的な社会改革をもたらすには不十分であった。

要約すると、七月革命(1830年)はフランスのシャルル10世を退け、オルレアン公ルイ=フィリップによる七月王政を生み出した政治的転換であり、ブルボン王朝の復古からオルレアン家への権力移行を象徴する事件である。だがその後も政治的対立は続き、最終的には1848年のフランス革命へとつながっていく。