プロイセン王とは:1702–1772年の称号起源とフリードリヒ、神聖ローマ帝国との関係
プロイセン王(1702–1772)の称号起源、フリードリヒの台頭、神聖ローマ帝国との駆け引きと併合までを濃密に解説する歴史ガイド。
プロイセン王は、おおむね1701年から1772年までプロイセンの支配者が用いた称号を指す(注:元の表記にある「1702年」より正確には1701年からである)。この称号は、ブランデンブルク選帝侯家(ホーエンツォレルン家)が、帝国内での地位と帝国外にある領土との関係を踏まえて選んだ政治的・外交的な工夫の産物だった。
起源と理由
17世紀から18世紀にかけて、ブランデンブルク選帝侯は同時にプロイセン公(ドイツ語では「Duke of Prussia」)でもあり、プロイセン公国は神聖ローマ帝国の領域の外に位置していた。したがって、選帝侯が「王(Rex)」の称号を名乗ることは帝国内では皇帝との対立を招く恐れがあった。そこで彼らは、帝国領外のプロイセンにおいてのみ王号を使う形で妥協した。
レオポルド1世との交渉と称号の承認
神聖ローマ皇帝レオポルド1世との交渉の結果、選帝侯フリードリッヒはプロイセンにおける王位を承認されることになった。具体的には、スペイン継承戦争への協力や外交的裏取引を含む一連の譲歩の見返りに、皇帝側が「プロイセンにおける王(King in Prussia)」と名乗ることを容認したのである。こうして1701年1月にフリードリッヒは戴冠し、以後「King in Prussia」という称号が公式に用いられた。
称号の意味と運用
「King in Prussia」という表現は微妙な法的・象徴的配慮を反映している。すなわち、選帝侯は帝国内(ブランデンブルクなど)では引き続き選帝侯の地位にとどまり、王権はあくまで帝国の外にあるプロイセン領でのみ行使されるという理解だった。この扱いにより、ホーエンツォレルン家は国内外での地位を両立させつつ、ヨーロッパ列強の一員としての地位を高めていった。
1772年以降の変化とその後
1772年、フリードリヒ2世は第一回目のポーランド分割でポーランド王国の広い地域を併合し、領地と政治的影響力を大きく拡大した。これを受けて、プロイセン君主は従来の「King in Prussia」表記からより包括的な「King of Prussia(プロイセン王)」と称するようになり、他の列強もこれを事実上容認した。
最終的な帰結と歴史的意義
この過程は、プロイセンが独立した近代国家へと成長していく重要な段階を示している。なお、神聖ローマ帝国はその後も存続したが、ナポレオン戦争の結果、皇帝フランツ2世が1806年に帝国の解消を宣言し、神聖ローマ帝国は終焉を迎えた。プロイセンは19世紀においてドイツ統一を主導する主要勢力へと発展していく。
まとめ:「プロイセン王(King in Prussia)」の称号は、プロイセン領が帝国外にあるという法的状況を利用した妥協の産物であり、1701年の承認以降プロイセン君主の国際的地位を高める役割を果たした。領土拡大と国際関係の変化に伴い、1772年以降はより強い主権を示す「プロイセン王(King of Prussia)」という称号が一般化した。
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