奉天事件(満州事変)とは:1931年の爆発から満州国成立まで
奉天事件(満州事変)とは?1931年の爆破を契機に始まった満州侵攻から満州国成立、国際的孤立までの経緯と影響をわかりやすく解説。
奉天事件は、満州事変とも呼ばれ、1931年に日本兵が中国北部の満州に侵攻した理由として設定された事件である。
1931年9月18日、奉天に近い日本の南満州鉄道の近くで、少量のダイナマイトが日本兵によって爆破された。爆発は弱く、鉄道はまだ使えたが、日本軍はこの行為を中国人のせいにし、満州に全面的に侵攻し、占領に至らしめた。日本は半年後、傀儡国家・満州国を建国した。この事件はすぐに世界中に知れ渡り、日本は外交的に孤立し、国際連盟から脱退することになった。
背景
事件当時の満州(現在の東北地方)は資源や鉄道・利益をめぐって日露戦後から日本の関心が強かった地域で、南満州鉄道を中心とする日本の経済的・軍事的利権が存在していた。関東軍は現地で強い独立性を持ち、政府の統制を超えて行動する傾向があった。1929年の世界恐慌以降、日本国内でも軍部の影響力が強まり、満州への拡大志向が高まっていた。
事件の経過(柳条湖事件)
この爆破事件は一般に「柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)」や英語では「Mukden Incident」と呼ばれる。爆破の規模は小さく、列車の被害や死傷者はほとんど出なかったが、関東軍はこれを口実に直ちに中国側の責任を主張して現地で軍事行動を開始した。数日から数週間のうちに奉天(現在の瀋陽)をはじめ主要都市が占領され、数か月のうちに満州の大部分が日本軍の支配下に置かれた。
中国側の対応と国際的反応
国民党政権(蒋介石率いる政府)は国内の事情や軍事力の差を背景に直ちに全面的な反撃を行わず、限定的な抵抗にとどめた。中国側は国際社会に訴え、国際連盟(リーグ・オブ・ネイションズ)が調査団(リットン調査団)を派遣して事件と占領の経緯を調べた。調査団は1932年に日本の行動を批判し、満州の現状を正当化しないとの報告をまとめたが、これに対する日本政府の反発から1933年に日本は国際連盟を脱退した。
満州国の成立とその後
満州の実効支配を進めた日本は1932年に形式的な国家として満州国を樹立し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を元首に据えて実質的に傀儡政権を作った。満州国は国際的な承認をほとんど得られず、日本の傀儡国家として批判を集めた。満州事変は日本の軍国主義を助長し、その後の中国全土への軍事拡張(1937年の盧溝橋事件以降の全面戦争)や太平洋戦争へとつながる重要な転機となった。
史学的評価
当時の爆破事件が偶発的であったのか、関東軍の「自作自演」であったのかについては議論があるが、多くの歴史家は関東軍幹部の計画的な行動が満州侵攻を引き起こしたと見ている。重要なのは、この事件が小規模な現地事件を大規模な軍事侵略の口実に変え、国際秩序と地域情勢に長期的な影響を与えた点である。
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