ペピン3世(ペピン小公子) 751–768年のフランク王とシャルルマーニュの父

ペピン3世(ペピン小公子、Pepin the Younger、Pepin III)は、約714年に生まれ、751年から768年までフランク王として在位した。カロリング朝の確立者であり、その治世は教皇庁との同盟、イタリア政策、南部や地中海沿岸での軍事遠征などを通じてフランク王国の基盤を強化した時期である。

生い立ち

ペピンは有力な廷臣(メロヴィング朝下の実質的な支配者)であったシャルル・マルテルの息子で、母はクロトルード(Rotrude)と伝えられる。生地は現在のベルギーにあるジュピルであったとされる(ベルギーのジュピル)。若年より父の下で政治・軍事の経験を積み、やがて王権を実際に掌握する立場へと進んだ。

王位獲得と対教皇関係

ペピンはまず「宮宰(メイヨール・オブ・ザ・パレス)」として実権を握っていたが、当時の名目的な王であった(最後の)メロヴィング朝王キルデリク3世を退位させ、自ら王位を主張した。751年にフランク王として認められ、さらに754年の教皇ステファヌス2世(Stephen II)との密接な関係を通じて教皇からの承認と聖別(儀式的な塗油)を受け、王権の正当性を教会の権威で補強した。

イタリア遠征と「ペピンの寄進」

教皇の要請に応じてペピンはロンバルド族王に対する軍事行動を行い、イタリア中部の領土を奪還した。その結果、教皇へ割譲された領域は後に教皇庁領(ローマ教皇領、すなわち教皇の世俗領)の基礎となり、これを「ペピンの寄進(ドネーション)」と呼ぶ。これによりローマ=教皇とフランク王権の結びつきが一層強まり、後のカロリング朝と教皇庁の協力関係の基盤が築かれた。

対内外の政策・軍事

ペピンはガロ・ローマ的行政制度や教会改革を支援し、聖職者や修道院の整備を通じて中央集権化を進めた。また、南フランス(アキテーヌやセプティマニア)や地中海沿岸の勢力伸長を図り、イスラム勢力や地域的反抗に対する軍事行動を行った。こうした軍事的・宗教的政策は、後に息子シャルルマーニュが大帝国を築くための土台となった。

結婚と子女

740年ごろ、ペピンはラオンのベルトラーダと結婚した。彼女はラオンのカリベルトの娘とされる。二人の間には複数の子が生まれ、成人して父の跡を継ぐ者もいた。主な子女は以下の通りである。

  • シャルルマーニュ(約742–814) — 後に西ローマ的な大帝国を築くことで知られる
  • カルロマン(およそ751–771) — ペピン没後、兄弟と王国を分割して統治した
  • ギセラ — 史料により言及される娘の一人(婚姻・活動の詳細は史料によって異なる)

晩年と死、遺産

ペピンは768年9月24日にサン=ドニで没したと伝えられる(サン・ドニで)。妻ベルトラーダとともにバシリカに埋葬され、ペピンの死後、その領土は息子シャルルマーニュとカルロマンによって分割統治された。ペピンの治世は、カロリング朝の王位継承と教皇庁との同盟関係を確立し、後の欧州史に大きな影響を与えた点で重要である。

評価:政治的・軍事的手腕によりメロヴィング朝の形式的支配を実質的に終わらせ、カロリング朝という新たな王朝の基礎を作った人物と評価される。教会との協力を通じて王の正当性を強化し、イタリア政策によって教皇領成立の端緒をつけたことが特に重要である。

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