グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月28日)、別名ポンペイ(/ˈpɒmpiː/)またはポンペイ・グレートとして知られる人物は、後期ローマ共和国の有力な軍事・政治指導者であった。

ピケヌム(現イタリア中部の一部)出身のポンペイは、出自こそ新興の地方騎士階級(ノヴィウス)に近かったが、武勲と財産を背景にローマの上流政治に進出した。若年期には内乱と混乱の時代に軍事的才能を発揮し、初期にはルシウス・コルネリウス・スッラに従って活動した。スッラからは勝利と権威を重ねたことでマグヌス(「偉大な」)の称号を与えられ、その名は以後広く用いられるようになった。

ポンペイの台頭は軍事的成功と巧みな政治的同盟に支えられていた。紀元前80年代から70年代にかけて、シチリアやアフリカでの反乱鎮圧、地中海の海賊掃討(紀元前67年のlex Gabiniaによる特別司令官任命を通じて)、さらには小アジアでの第三次ミトリダテス戦争の最終決着など一連の遠征で大きな成果を挙げた。これらの功績により、地中海東部における勢力圏と多くの支持者を獲得し、戦果をもとに属州支配や同盟国の再編を進めた。

政治面では、港湾や穀物供給の安定化、軍団の忠誠を背景にした勢力を持ち、紀元前70年にはマルクス・リキニウス・クラッススと共同で執政官(コンスル)に就任した。紀元前60年頃にはガイウス・ユリウス・シーザー、クラッススと共に非公式ながら有力な三者協定、いわゆる「第一三頭政治(トリウムウィラート)」を結び、共和政ローマの実権を分担した。ポンペイは政治的にも資金的にもこの同盟から恩恵を受け、シーザーとは娘ユリアとの結婚(政治同盟の結束)を通じて一時的に親密な関係を保った。

しかし、紀元前54年ごろにユリアが死去し、さらに紀元前53年のクラッススの死(カルラエの敗北)を経て、三者の均衡は崩壊する。権力の主導権をめぐる対立が激化し、ついに紀元前49年にシーザーがルビコン川を渡って軍を率いて進軍すると、ポンペイは元老院側の中心人物としてシーザーに対抗する立場を取った。両者はギリシアで決戦を迎え、紀元前48年に行われたパルサロスの戦いでポンペイは敗北する。

パルサロス敗北後、ポンペイは地中海東方に逃れ、援助を求めてエジプトへ向かったが、当地のプトレマイオス朝政権は政治的計算から紀元前48年9月28日にポンペイを暗殺した。彼の首は切り離され、カエサルに見せられたと伝えられる。カエサルはその後、ポンペイの遺骨をローマに送り、一定の敬意をもって葬った。

評価と遺産:ポンペイは、その軍事的才能と短期間に築いた広大な支配圏によって「グレート」と称された一方で、政治的決断力や持続的な派閥形成においては限界を示したとされる。個人的には寛容や恩賞を通じて支持を拡大する術を持っていたが、シーザーとの確執に際しては統率力・戦略的柔軟性に欠け、共和政から帝政へ移る過程における主要人物の一人として歴史に記録されている。彼の生涯と死は、ローマ共和政終焉の象徴的出来事の一つとみなされる。

主な年表(簡潔)

  • 紀元前106年 - 出生(ピケヌム)
  • 紀元前83–79年頃 - スッラ派での軍功、後に「マグヌス」の称号
  • 紀元前70年 - クラッススと共同で執政官
  • 紀元前67年 - 海賊掃討の特命を受け、地中海の安全を回復
  • 紀元前66–63年 - 東方遠征でミトリダテスを降し、領域再編を実施
  • 紀元前60年頃 - カエサル、クラッススと第一三頭政治を形成
  • 紀元前49–48年 - シーザーと内戦、パルサロスで敗北
  • 紀元前48年9月28日 - エジプトで暗殺