この記事では、1889~1909年の保護主義政党について紹介しています。
保護主義党(Protectionist Party)は、1889年から1909年までのオーストラリアの政党である。その政策は保護主義に基づいていた。保護主義党は、オーストラリアの産業の成長と雇用を可能にするためには保護関税が必要であると主張した。ビクトリア州とニューサウスウェールズ州の農村部で最大の力を発揮した。最も重要な指導者は、オーストラリアの第1代首相と第2代首相を務めたエドモンド・バートン卿とアルフレッド・ディーキンである。
設立の背景
保護主義党は19世紀末から20世紀初頭にかけて、植民地時代の経済利害と国家形成の流れの中で結成された政党である。工業化を進めたい産業界や保護された農業地域を支持基盤とし、安定した雇用と国内産業の育成を主張した。党は植民地時代の自由貿易派(Free Trade)や労働運動との対立と協調を繰り返しながら、連邦成立後の連邦政治で重要な役割を果たした。
主な政策とイデオロギー
- 保護関税:輸入品に関税を課して国内産業を保護し、雇用を維持・拡大することを最優先にした。
- 経済的国家主義:オーストラリア国内の製造業や一次産業の発展を通じて、経済的自立を図る立場を取った。
- 社会改革への限定的支持:労働党との協力を通じて一部の社会改革や労働関連政策(賃金・労使仲裁など)を認めることがあったが、労働党の全面的な社会主義路線には距離を置いた。
- 人種政策:時代背景として、排他的な移民政策(いわゆる「白豪主義」)を支持する者が多く、初期連邦政府で成立した移民制限法などにも関与した。
政権と連立の経緯
連邦成立直後、保護主義党は労働党の支持を受けて初の連邦政府を結成した。エドモンド・バートンが初代首相となり、保護主義の立場から国の基盤づくりを進めた。政府は労働党と一定の妥協を行い、社会改革の一部を実施したが、労働党の要求が保護主義者には過激と見なされる場面も多く、政権はしばしば不安定な少数政権となった。
保護主義党は連邦政治の中で中道的な立場を取り、時には労働党と協調し、時には自由貿易・反社会主義勢力と対峙した。この立ち位置が、後の分裂と合併の原因の一つとなった。
分裂と「融合」(フュージョン)
1906年頃から保護主義者の得票は相対的に減少し、労働党の勢力が強まった。1908年にはアンドリュー・フィッシャーの労働党内閣が再び登場するなど、保護主義党は労働党の台頭に対抗するため、より強固な反社会主義的連合の必要性が高まった。
この流れの中で、保護主義党の指導者の一部、特にアルフレッド・ディーキンは、反社会主義を掲げる党と合流することを選択した。反社会主義党のリーダーであるジョセフ・クックらとの協議が進められ、保護主義党の多くは反社会主義党と合併して英連邦自由党となる新党(いわゆる「フュージョン」)を結成した。
一方で、アイザック・アイザックやH.B.ヒギンズなど、よりリベラルな保護主義者は合併に反対し、労働党に接近して残留した者もいた。このため党は事実上分裂し、保護主義の名前を冠した政治勢力は消滅に向かった。
合併後の展開と遺産
1909年の「フュージョン」によって形成された新党は、労働党に対抗する体制を整えたが、1910年の選挙でフィッシャー率いる労働党が過半数を獲得し、オーストラリア初の連邦過半数政府を実現した。保護主義党そのものは1909年の合併をもって消滅したが、その政策や政治文化は合併後の自由主義勢力やその後の政治地図に影響を残した。
保護主義党の主な遺産には次のような点が挙げられる:
- 初期連邦政府の形成と国家制度の確立に果たした役割。
- 国内産業保護を重視する経済政策の展開と、産業育成のための政治的基盤の構築。
- 労働党との協調・対峙を通じて形成されたオーストラリアの三極政治(保護主義・自由貿易・労働)という初期の政党構図。
その後
保護主義党が消滅した後も、その支持基盤や政治家の多くは融合後の自由党系勢力や時代ごとの中道勢力へと吸収された。なお、2007年には「オーストラリア保護主義党」という名称の新政党が発足しているが、19世紀末から20世紀初頭の歴史的な保護主義党とは直接的な連続性は限定的である。
保護主義党は、オーストラリアの近代国家形成期において経済政策と政治連合の在り方を左右した重要な政党の一つである。その分裂と合併の過程は、初期連邦政治の不安定さと、労働運動の台頭に対する既存勢力の再編成を象徴している。

