三陸とは:地理・海岸線の特徴と津波・震災の教訓(青森・岩手・宮城)
三陸の地理と36の入り組んだ海岸線を解説。青森・岩手・宮城の津波・震災の教訓と防災対策をわかりやすく紹介。
三陸(さんりく)は、日本の地方である。本州の北東部に位置する。三陸は青森県、岩手県、宮城県の一部を含む地域である。陸州(りくしゅう)と呼ばれることもあった。
三陸は、36の小さな湾からなる不規則な海岸線です。それぞれの湾は、波の衝撃力を集中的に受ける。このことは、2011年の東日本大震災での津波被害が物語っている。
地理と海岸線の特徴
三陸の海岸線は「リアス式海岸」と呼ばれる入り組んだ地形が特徴です。リアス式海岸は、断崖や入り江(湾)が多く、海岸線の総延長が長く見える一方、入り江に波が入ると水が集中して湾奥で波高が増すため、津波の被害が拡大しやすくなります。地質的には太平洋プレートと日本列島側のプレートが接する沈み込み帯に近く、地震の発生が相対的に多い地域です。
気候・自然環境と生態系
三陸は冬は寒く、夏は比較的温暖な日本海側とは異なる東北沿岸の気候を示します。海からの栄養塩が豊富で、プランクトンが多いことから漁業や養殖業が発達しました。三陸産のホタテ、カキ、ワカメ、サンマなどは全国的にも知られています。また、沿岸には松林や海岸林が点在し、これらは防風・防潮の役割も果たします。
歴史的な津波と震災の事例
- 明治三陸地震(1896年) — 大規模な津波により甚大な被害が発生しました。多くの集落が被災し、教訓として津波への警戒が地域に根付きました。
- 昭和三陸地震(1933年) — こちらも大きな津波を伴い、沿岸部で再び大きな被害をもたらしました。
- 東日本大震災(2011年) — 巨大地震と巨大津波により、沿岸の集落、港湾、産業基盤が壊滅的な被害を受けました。防潮堤や避難路、避難ビルの整備が進められる契機となりました。
これらの歴史から、三陸沿岸は津波リスクが常に存在する地域であることが繰り返し証明されています。
防災・減災と復興の教訓
東日本大震災以降、三陸地域では以下のような対策・取り組みが進められてきました。
- 高台移転や集落の嵩上げ、避難路の整備など、住民が物理的に高台へ避難しやすくする都市計画。
- 防潮堤やゲートなどのハード対策。ただし、防潮堤だけでは完全な防御はできないため、限界を理解した上での設計が求められます。
- 地域住民による避難訓練、津波伝承の継承。過去の経験を語り継ぐことが迅速な避難行動に結び付きます。
- 早期警報・情報伝達システムの強化(緊急地震速報、津波警報、スマートフォン通知、町内放送など)。
- 多重防御の重要性:自然(海岸林等)・社会(避難計画・教育)・技術(堤防や観測)の組み合わせが必要。
また、復興にあたっては単に元の町を戻すのではなく、将来の災害リスクを考慮した「命を守るまちづくり」が進められてきました。
経済・文化・観光
三陸は漁業が地域経済の重要な柱です。沿岸漁業や養殖業が盛んで、新鮮な海産物は観光資源ともなっています。2013年には震災後の自然と観光振興を目的に、三陸復興国立公園(名称:三陸復興国立公園)が整備され、観光や環境保全の取り組みが進んでいます。
また、郷土料理や祭り、年中行事など地域文化が色濃く残っており、復興の過程で地域固有の文化を活かしたまちづくりも注目されています。
まとめ:教訓とこれから
三陸は美しい海岸線と豊かな海の恵みを持つ一方で、地震・津波という自然災害のリスクが高い地域です。過去の大災害の経験から学んだことは多く、地域社会、行政、研究者が連携して防災・減災、復興を進めています。重要なのは、物理的な対策と同時に「記憶を伝えること」「地域の備えを日常化すること」であり、これが将来の被害軽減につながります。

三陸地方をハイライトした日本列島地図
歴史
1869年、陸奥国と出羽国が分割された。
陸奥が新たに5国に分割される。陸奥は陸奥、陸中、陸前、岩代、岩城の5国に分割された。このうち、前3者は「三陸」と総称された。
1871年7月、新道は廃止されたが、地域名は青森から宮城の牡鹿半島までの三陸海岸として現在も使用されている。
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