トゥヴァン人民共和国(タンヌトゥヴァ)とは — 1921–1944年の概要と歴史

トゥヴァン人民共和国(タンヌトゥヴァとも呼ばれる)は、1921年から1944年まで存在した部分的に承認された国家である。1926年まではタンヌ・トゥヴァ(Tannu-Tuva)という名称も用いられた。国際的な承認は限定的で、承認した国はソビエト連邦とモンゴルのみの2カ国だけであった。領域はロシアのシベリア地方とモンゴルに挟まれた中央アジアの山岳・盆地地帯にあり、首都はキジル市であった。経済は主に経済は遊牧民による牛の(および羊・馬など家畜)の飼育と交易が中心であった。

成立の経緯

第一次世界大戦後の混乱とロシア革命の影響を受け、1921年に現地の革命勢力とソ連の支援を受けた軍事行動の結果、トゥヴァは事実上の独立を獲得した。国内では伝統的な遊牧社会が強く、語族はトゥバ語(テュルク系)を主要言語とし、仏教(ラマ教)やシャーマニズムが広く信仰されていた。初期は内政と宗教・経済の近代化をめぐる対立や、ソ連からの助言・介入が続いた。

政治と国際関係

トゥヴァは形式上独立国家だったが、政治・軍事・経済の面でソビエト連邦の強い影響下に置かれた。政府機構や行政制度の整備にはソ連の助言者が関与し、外交面でもソ連と密接に協調した。1930年代にはソ連の政策に伴う社会主義化・近代化政策が導入され、伝統的な指導層や宗教勢力の力は縮小した。

経済と社会

経済基盤は遊牧畜産が中心で、家畜の放牧と地域間交易が生活の大部分を占めていた。山岳地帯と盆地の地形は農耕の制約が大きく、季節移動を伴う遊牧が文化的にも重要だった。道路や医療・教育などの近代的インフラは限られていたが、ソ連との結びつきにより少しずつ整備が進められた。

併合とその後

第二次大戦中の1944年、トゥヴァの指導部はソ連への編入を申請し、同年中にトゥヴァはソビエト連邦に編入された。編入後はまずトゥヴァ自治州(Tuvan Autonomous Oblast)としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシアSFSR)に組み込まれ、1961年にはトゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国(ASSR)に昇格した。ソ連崩壊後の1992年には現在のトゥヴァ共和国(ロシア連邦の構成主体)として位置づけられた。

文化的特徴と遺産

トゥヴァの文化は遊牧民的伝統、独自の音楽(喉歌=ホーミー)、詩的口承伝統、仏教とシャーマニズムの混合などが特色で、これらは今日のトゥヴァ共和国にも受け継がれている。一方、20世紀前半の政治的変動とソ連化は社会構造と宗教慣習に大きな影響を与えた。

要約:トゥヴァ人民共和国は1921年に成立し、限定的な国際承認しか受けなかったものの、独自の文化と遊牧経済を持つ地域国家であった。1944年にソ連へ編入され、その後の行政変遷を経て、現在はロシア連邦内のトゥヴァ共和国として存続している。

現代のトゥヴァ共和国の地図。人民共和国もほぼ同じ国境線であった。Zoom
現代のトゥヴァ共和国の地図。人民共和国もほぼ同じ国境線であった。

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