ウルバーノ・ピオ・フランチェスコ・ラッタッツィ(1808年6月29日–1873年6月5日)は、リソルジメント期からイタリア王国初期に活躍したイタリアの法曹・政治家である。穏健派の「歴史的左派」の有力者として、たびたび代議士、代議院議長、そして2度の首相を務め、議会政治の中で大きな役割を果たした。その経歴は、自由主義的な議会手続きと、イタリア統一をなお形づくっていた革命的衝動との緊張を示している。

生い立ちと教育

ラッタッツィは、当時サルデーニャ王国の一部であったイタリア北西部ピエモンテ地方のアレッサンドリアに生まれた。ピエモンテの中心都市トリノにあるトリノ大学で法学を学び、1830年代に法曹界へ入った。弁護士として地位を築いたのち、1848年革命と憲政を求める動きの高まりのなかで本格的に政治へ転じた。1848年にはサルデーニャ王国の議会の代議士に選出され、長い立法活動を始めた。

政治経歴と公職

ラッタッツィは、議会運営の巧みさと穏健な改革志向で知られるようになった。彼は代議院議長を3回務めた。2回はサルデーニャ王国の下で、1回はイタリア統一後のイタリア王国の下である。下院議長としての3期目は1861年2月に始まり、1862年初めまで続いた(代議院議長)。

  • サルデーニャおよびイタリアの議会で代議士
  • 代議院議長(複数期)
  • イタリア首相:1862年3月–12月、1867年4月–10月
  • 時期を分けて複数の閣僚職を歴任

統一運動とガリバルディ事件

ラッタッツィ政権は、イタリア統一が進む一方でローマがなお教皇とフランスの保護下にあった、微妙な時期に政権を担った。彼は法秩序と議会国家の権威を維持しようとし、その姿勢は革命家たちとの対立を招いた。最も注目された危機は、ジュゼッペ・ガリバルディが1862年にローマへ無許可の進軍を試みたときだった。ラッタッツィは遠征を阻止する措置を命じ、アスプロモンテでの衝突とその後のガリバルディの処遇は、激しい世論と政治的反発を生んだ。その余波で彼の立場は弱まり、首相辞任につながった(辞任)。

晩年と遺産

1867年の最後の在任後、ラッタッツィは第一線の政治から徐々に退いた。その後もしばらくは老練な政治家として議会活動に影響を与え、引退するまで時に閣僚職も担った。1873年にフロジノーネで死去した。彼の遺産は、イタリアが地域国家から統一王国へ移行する過程で、自由主義改革と制度的安定の調和を図った卓越した議会指導者としてのものである。私生活では欧州の王侯家ともつながりがあり、妻マリア・ワイズ・ボナパルトはリュシアン・ボナパルトの孫娘で、ナポレオン・ボナパルトの大姪にあたる。

注目すべき点:

  1. ラッタッツィはイタリア統一の前後に代議院議長を務め、サルデーニャとイタリアの立法機関をつないだ。
  2. 彼は歴史的左派に属し、蜂起よりも法的改革と議会的方法を重視する穏健派だった。
  3. ガリバルディ事件は彼の経歴で最もよく知られる論争であり、19世紀半ばのイタリアにおける革命と国家建設の衝突を示している。

ラッタッツィの議会活動と1850〜1860年代の政治状況については、イタリア統一運動と初期イタリア王国に関する伝記や通史を参照されたい(人物概説, ピエモンテ, トリノ大学, サルデーニャ議会, 立法記録)。