ウォルター・ジョンソンとは:メジャー史の記録保持者で“ビッグ・トレイン”の名投手

速球伝説「ビッグ・トレイン」ウォルター・ジョンソンの軌跡。ワシントンで築いたメジャー記録、勝利数・投球術・監督歴までその全貌を解説。

著者: Leandro Alegsa

Walter Perry Johnson(1887年11月6日 - 1946年12月10日)は、アメリカのメジャーリーグで活躍した投手である。メジャーリーグで21年間(1907年〜1927年)プレーし、すべてワシントン・セネターズでプレーした。その後、1929年から1932年までセネタースの監督を務め、1933年から1935年までクリーブランド・インディアンズの監督を務めた。球速と長い腕を生かした速球で知られ、「ビッグ・トレイン」の異名を持つ。多くの野球記録を樹立し、通算勝利数417勝は歴代2位に位置づけられている。歴史的に最も偉大な投手の一人と広く評価されている。

経歴の概要

ジョンソンは1907年にメジャーデビューを果たし、その後21シーズンにわたってワシントン一筋で活躍した。1924年にはセネターズの主力投手としてチームの唯一のワールドシリーズ制覇(1924年)に貢献した。現役引退後は指導者に転じ、前述のとおりセネターズおよびインディアンズで監督を務めた。

成績と記録

  • 通算勝利:417勝(歴代2位)
  • 通算防御率:2.17(極めて低い生涯防御率)
  • 奪三振数:3,500以上(当時の大記録となり、長年にわたり歴代トップの座にあった)
  • 完投数や完封数でも突出した成績を残し、投球回・耐久性の面で歴代屈指の記録を保持

個人タイトルとしては複数シーズンにわたり奪三振王や最多勝などリーグトップに立ち、シーズンを通した安定感とポテンシャルは際立っていた。

投球スタイルと評価

長い腕から放たれる速球が最大の武器で、威力ある直球で打者を圧倒した。変化球やコントロールも磨かれており、三振を奪う能力と長時間マウンドに立ち続ける耐久力を併せ持っていた。そのため「ビッグ・トレイン(大列車)」というニックネームが付けられ、当時の観客や評論家から高く評価された。

栄誉と遺産

引退後もその功績は忘れられず、1936年の野球殿堂(Baseball Hall of Fame)創設時には初期の殿堂入り選手の一人に選出された。現代でもしばしば「史上最高の投手」の候補として名前が挙がり、メジャーリーグ史に残る象徴的な投手として敬意を払われている。

人物像と影響

競技面での偉業に加え、チームの顔として長く在籍したことから、ワシントンのファンや野球史研究者の間では伝説的存在となっている。投球技術やトレーニング、投手の使い方に関する考え方にも影響を与え、後世の投手や指導者に影響を残した。

ジョンソンはその圧倒的な成績と長年にわたる活躍により、メジャーリーグ史上における最も重要な選手の一人として記憶され続けている。

幼少期

ウォルター・ジョンソンは1887年11月6日、カンザス州ハンボルト近郊の農場で生まれた。両親はフランクとミニー・ジョンソンで、5人の兄弟がいた。14歳のとき、一家はカリフォルニアオレンジ郡に引っ越した。その後、アイダホ州に移り住み、アイダホ州の小さなチームで野球をしたり、電話会社に勤めたりしていた。彼の投球を見たワシントン・セネターズの関係者が、1907年に彼と契約を交わした。

野球歴

ウォルター・ジョンソンは「パワーピッチャー」として知られ、非常に強く、速いボールを投げることができた。彼の速球が、歴代最多の3509個の奪三振や最多のシャットアウトなど、多くのことを成し遂げることができた主な理由である。また、1913年と1924年の2回、アメリカン・リーグの最優秀選手賞を受賞している。

野球の後

1927年に現役を引退したジョンソンは、1936年に野球殿堂入りを果たした最初の5人のうちの1人である。その後、米国下院議員に立候補したが、落選した。1946年12月10日、脳腫瘍のためワシントンD.C.で死去した。



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