西域(せいいき)とは:中央アジア・新疆とシルクロードの歴史概要
西域(中央アジア・新疆)とシルクロードの歴史を一望。玉門峠以西の交流・交易と文化変遷を古代から中世まで分かりやすく解説。
西域(せいいき、中国語:西域、ピンイン:Xīyù)とは、中央アジア、特に玉門峠以西の地域を指す伝統的な地理概念である。中国の史料では紀元前3世紀ごろから用いられ、主に西秦(玉門関)を境にした西方の諸国・オアシス都市国家を意味した。地理的には現在の新疆ウイグル自治区周辺からさらに中央アジアに至る広い地域を含み、歴史的には遊牧民や諸王国が交錯する緩衝地帯だった。
歴史的には、紀元前2世紀に漢の外交使節 張騫(ちょうけん) が西方に派遣されたことが転換点となり、漢が西域諸国と政治的・経済的な接触を深めた。以後、シルクロードを通じて絹・香料・宝石・金属・馬などの交易が活発になり、交易路沿いの都市(敦煌、龜茲=クチャ、於闐=ホータン、高昌、喀什など)が繁栄した。
新疆ウイグル自治区やインド亜大陸の北部を指すこともある(小説『西遊記』などの物語的表現では、さらに広義に用いられることがある)。また、仏教がインドから中国へ伝わる際の経路として、西域は宗教・文化の中継点となり、仏教典籍や絵画、石窟(莫高窟など)にその痕跡が残る。
西域は宗教・文化の交差点でもあり、仏教のほか、マニ教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、後のイスラームなど多様な信仰が共存・伝播した。言語的にもトカラ語、ソグド語、漢語、チュルク語派(後のウイグル語・カザフ語等)などが行き交い、多文化的な社会を形成した。
シルクロードに位置するため、西域は紀元前3世紀頃から政治的・軍事的にも重要視された。唐代には中央政府が安西都護府などの機関を置いて直接的な支配を試み、7〜8世紀の間に一時的に唐朝の影響下に入ったが、同時期に吐蕃(チベット)や突厥、回鶻(ウイグル)などの勢力が入り乱れ、支配は流動的だった。10世紀以降、中央アジア側からのトルコ系王朝(カルハン朝など)によるイスラーム化が進み、地域の宗教・文化地図は大きく変わった。
考古学的資料や写本(敦煌写本、トルファン文書など)は、西域が単なる交易路ではなく、行政・宗教・学問の交流拠点であったことを示している。絹・陶磁器・紙など中国側の品物は西方へ、大乗仏教の経典やインド由来の思想は東方へと移動し、相互に影響を与え合った。
近世以降はモンゴル帝国や明・清の時代を経て、19〜20世紀にかけて帝国的・国民国家的な再編が進み、今日の国境線や民族構成が形成された。現代では「西域」という語は歴史的・文献学的な用語として用いられることが多く、学術的には「中央アジア」や「新疆地域」との関係で議論される。
要点をまとめると:
- 地理:玉門峠以西の中央アジア・新疆を含む広域。
- 歴史的意義:漢代以降の外交・交易の舞台。シルクロード上の主要な中継地。
- 文化交流:宗教(仏教、マニ教、キリスト教、イスラーム等)や言語が混交する多文化地域。
- 近代以降:イスラーム化、オスマン・モンゴル・清朝の影響を経て、現代の国境・民族構成へと変化。
西域は、古代から中世にかけて東西を結ぶ重要な回廊であり、物資だけでなく思想や技術、宗教が往来した地域として、今日でも歴史・考古学・宗教学の重要な研究対象となっている。
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西遊1世紀。南西にペルシャのパルティア帝国、中央に中央アジアの諸王国、西に中国の新疆ウイグル自治区がある。
歴史
漢匈奴の戦争(西暦89年まで)はここで戦われた。
7世紀、唐の西域攻略作戦により、中国がこの地を支配することになった。
西遊記は、東アジア、インド亜大陸、イスラム世界との重要な交流の場となった。
特にモンゴル帝国時代には、その傾向が強かった。
唐の僧玄奘三蔵がインド留学の途上でこの地を横断した。長安に戻ると、影響力のある『大唐西域記』が書かれた。
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