1172年の年表:出来事・主な誕生と死去
1172年の年表:政治・文化の主要出来事や注目の誕生・死去を時系列で整理し、重要人物と歴史的転機をわかりやすく解説。
内容
1 イベント
2 主な誕生
3 主な死去
4 参考文献・関連資料
イベント
- アイルランド:シノド(Synod)・オブ・キャッスル(Cashel)の開催(1172年)
1171–1172年にかけてイングランド王ヘンリー2世がアイルランドへ遠征した流れの中で、1172年にキャッスル(Cashel)で開かれた会議(シノド・オブ・キャッスル)が知られています。この会議はアイルランド教会をローマ教会の慣習に合わせるための改革や規律の統一を目的とし、また英王の影響力がアイルランドに及ぶことを確認する契機となりました。現地の慣習とローマ的教会秩序の融合・整理が進められる重要な出来事です。 - イングランド王ヘンリー2世のアイルランド関与の強化(1171–1172年の流れ)
上記のシノド開催は、ヘンリー2世がノルマン系貴族のアイルランド進出(いわゆるノルマンのアイルランド侵攻)を受けて、自身の主権を示し法秩序を確立しようとした動きの一部です。1171年にヘンリー2世がアイルランドに上陸して以降、1172年までに現地での支配関係の確認や教会改革が進められました。中世の英国・アイルランド史における重要な転機の一つです。 - ヨーロッパ・地中海世界の継続する政治状況
1172年は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)やローマ教皇アレクサンデル3世、ビザンツ帝国のマヌエル1世などが活躍していた時期にあたり、多くの地域で外交・軍事・教会間の折衝が継続していました。特定の大事件が年内に集中した年ではないものの、皇帝・教皇・各王侯の勢力均衡が続いた年です。 - 東アジア(中国・日本など)の状況
中国では宋(南宋)の時代で、皇帝は孝宗(在位:1162–1189)であり、北方の金との関係や内政が中心課題でした。日本では平安末期(治承・寿永の前段階)にあたり、朝廷・院政・武士勢力の間での力関係が続いていました。1172年自体に大きな帝位の交代等は記録されていませんが、各地域での政治・文化の継続的な変化の一端が見られます。
主な誕生
中世における個人の「出生年」は史料の伝達や記録保存の事情から不確かなことが多く、1172年に確実に生まれたと断定できる著名人は少ないのが実情です。地域史・家系記録・修道院記録等を照合することで出生年の推定が行われますが、出典によって差異が生じる点に注意が必要です。
以下は、出典によっては生年が1172年とされる人物がごくまれに挙げられる場合がある旨の注記です(確定的な一覧ではありません)。詳細な人物ごとの確認は一次史料や専門文献の照合を推奨します。
主な死去
1172年に亡くなったと確実に広く認められている国際的に有名な人物は少ないですが、地域史における地方領主や修道士・聖職者など、地域資料に記録されている人々は存在します。中世史では没年の伝承や年代のずれがあるため、個別の人物については専門の年表や学術文献での確認が必要です。
参考文献・関連資料
- Encyclopaedia Britannica — Synod of Cashel
- Encyclopaedia Britannica — Henry II (king of England)
- Encyclopaedia Britannica — Norman invasion of Ireland
- Encyclopaedia Britannica — Song dynasty
- Encyclopaedia Britannica — Pope Alexander III
注:本年表は、現存史料の制約(年代差や写本間の相違など)および地域史ごとの記録密度の差を考慮して作成しています。特定の人物の出生・死去年や出来事の詳細を確認する際は、一次史料(年代記、行政記録、教会記録)や最新の学術研究を併せて参照してください。
イベント
出生数
- コンスタンチノープルのバルドウィン1世(1205年没)
- ふじわらもりえ、日本の藤原摂関家の最後の一人(1238年没)。
- タカシュ
- オックスフォード第2伯爵 オーブリー・ド・ヴィア(1214年没)
- ブロワ伯爵ルイ1世(1205年没)
- チェスター伯爵ラヌルフ・ド・ブロンデヴィル(1232年没)
- エルサレム女王イザベラ 1190/1192~1205年(1205年没)
死亡者数
- イタリアのサヴォワ伯爵アマデウス3世の娘アグネス(1125年生)。
- ヘマチャンドラ、インドの数学者、哲学者、歴史家(1089年生まれ)
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