1948年アメリカ大統領選挙:トルーマンの逆転勝利と「デューイ勝利」誤報
この選挙は、ハリー・S・トルーマン(当時の大統領)とトーマス・E・デューイ(ニューヨーク州知事)の間で行われた。トルーマンは303人の選挙人を獲得して勝利した。デューイは189票を獲得した。サーモンドは、テネシー州の忠実な選挙人を含めて39票を獲得した。
選挙の概要と背景
1948年アメリカ大統領選挙(投票日:1948年11月2日)は、第二次世界大戦直後の国内政治が色濃く反映された選挙でした。与党の民主党は、公民権問題や対外政策を巡って内部で分裂を経験し、南部白人保守派は「州の権利民主党(ディキシークラット)」を結成して独自候補を擁立しました。これにより伝統的な民主党支持地域の一部が分裂しました。
選挙の主要候補は、現職の大統領であるハリー・S・トルーマン(再選を目指す民主党)と、共和党候補のトーマス・E・デューイでした。南部の分裂勢力を率いたのがストロム・サーモンド(通称サーモンド)で、最終的に39人の選挙人票を獲得しました。また、左派寄りの進歩党からも別候補が出馬し、三すくみの様相を呈していました。
「デューイ勝利」誤報とその背景
この選挙は、選挙結果が非常に動揺したことで知られている。予想では、デューイがトルーマンを投票で打ち負かすとされていた。特に世論調査機関や新聞の事前予測はデューイ有利を示しており、多くのメディアがそれを信じて号外や見出しを早期に準備しました。例えば、シカゴのある新聞は、デューイが選挙に勝ったという号外を事前に印刷していたのです(有名な「DEWEY DEFEATS TRUMAN」の見出し)。この誤報が注目されたのは、トルーマンが当確を覆して勝利した直後に、有名な写真で新聞紙を掲げる姿が広く報じられたためです。
なぜ予測は外れたか
- 世論調査の問題点:当時の主要な世論調査は投票直前の変化を十分に捕らえられず、またサンプルの取り方や調査終了時期の設定が現在の基準と比べ不十分でした。多くの調査が投票日よりかなり前に終了しており、トルーマンの選挙戦末期の盛り上がりを反映できませんでした。
- トルーマンの巧みな選挙運動:トルーマンは「ホイッスルストップ(汽車での街頭演説)ツアー」を全国で行い、地方の有権者に直接訴えかけることで支持を伸ばしました。強い現場キャンペーンが、予測よりも高い票を集める要因となりました。
- 党の分裂と地域性:ディキシークラットの分裂などで票が分かれた一方、地域ごとの有権者動向が複雑に絡み合い、単純な全国的予測が当てはまらない結果となりました。
結果と影響
選挙人票はトルーマン303、デューイ189、サーモンド(ディキシークラット)39という結果になり、トルーマンが再選を果たしました。結果は「予測の失敗」と「メディア誤報」の象徴となり、世論調査の方法論やメディアの速報体制の見直しを促しました。
この選挙はアメリカ政治史上の教訓として語り継がれており、特に「早合点した報道」の危険性と、選挙直前まで変化する有権者の動きを正確に捉えることの重要性を示しています。また、トルーマンの勝利は小規模ながらも現場重視の選挙運動の有効性を証明した例としても評価されています。
候補者
きょうわとう
共和党の候補者
- トーマス・E・デューイ(ニューヨーク州知事
- ロバート・タフト(オハイオ州選出上院議員
- ハロルド・スターゼン(元ミネソタ州知事
- アーサー・H・バンデンバーグ(ミシガン州上院臨時議長
- アール・ウォーレン(カリフォルニア州知事
- ダグラス・マッカーサー(ニューヨーク出身の陸軍大将
候補者ギャラリー
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ニューヨーク州知事トーマス・E・デューイ氏
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オハイオ州選出のロバート・タフト上院議員
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ハロルド・スターゼン元ミネソタ州知事
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アール・ウォーレン(カリフォルニア州知事
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ニューヨークのダグラス・マッカーサー陸軍大将
みんしゅとう
民主党の候補者
- ハリー・S・トルーマン(アメリカ合衆国大統領、ミズーリ州出身
- リチャード・ブレバード・ラッセル(米国ジョージア州選出上院議員
候補者ギャラリー
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ジョージア州上院議員リチャード・ラッセル・Jr.