ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman、1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、1945年から1953年までアメリカ合衆国第33代大統領を務めた。フランクリン・D・ルーズベルト大統領が在任中に死去したため、大統領に就任した。
トルーマンは大統領として、第二次世界大戦を終わらせるために日本に原子爆弾を使用し、戦争で破壊されたヨーロッパを修復し、冷戦を開始し、朝鮮戦争に米国を参加させるなど、重要な外交政策の決定を行いました。
生い立ちと政界入り
トルーマンはミズーリ州で生まれ、若年期は家業や地方政治に関わりながら過ごしました。第一次世界大戦では砲兵部隊の士官として欧州戦線に従軍し、帰国後はビジネスや地元政界で活動。1934年に上院議員に当選し、1935年から1945年までミズーリ州選出の上院議員として連邦政治に関与しました。中間管理職としての実務経験と議会での実績が、後の大統領職に生きました。
大統領としての主要な政策と出来事
- 原子爆弾の使用と戦後処理:1945年に広島(8月6日)・長崎(8月9日)への原子爆弾投下を決断し、日本の降伏(8月15日、正式降伏は9月2日)に至りました。この決定は戦争終結を早めたとされる一方、倫理的・人道的議論を引き起こしています。
- 冷戦の開始と封じ込め政策:トルーマンはソ連の勢力拡大に対抗するための封じ込め(containment)政策を推進しました。1947年のトルーマン・ドクトリン(ギリシャ・トルコへの軍事・経済援助表明)や、1948年のマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興援助)は、冷戦期の枠組みを形成しました。
- ベルリン空輸(1948–1949):ソ連によるブロックに対して西側は地上ルートを遮断された西ベルリンへ空輸で物資を送り、封鎖を事実上打破しました。
- 北大西洋条約機構(NATO)の創設(1949年):集団安全保障の枠組みとしてNATOが成立し、西側諸国の軍事協力が制度化されました。
- 国際連合と朝鮮戦争:国連軍の旗の下で1950年に朝鮮戦争が勃発。トルーマンは国連決議に基づき米軍を派遣し、中国介入や38度線付近での膠着、そしてマッカーサー将軍の更迭(1951年)といった困難に対処しました。戦争は休戦協定(1953年7月)で実質的に終結しましたが、正式な終戦宣言はされていません。
- 国家安全保障と軍備政策:1947年の国家安全保障法による国防体制の再編、1950年のNSC-68による大規模軍備増強路線の採用など、冷戦下での軍事・情報体制の強化を進めました。
- 公民権と社会政策:国内では1948年に黒人兵士の人種差別を廃止するための行政命令(Executive Order 9981)を出し、軍の人種統合を推進しました。また「フェア・ディール」と呼ばれる社会福祉・経済政策を掲げ、最低賃金の引上げや社会保障の拡大などを提案しましたが、医療保険制度の導入など主要項目の多くは議会で実現しませんでした。
- 外交上の他の動き:1948年のイスラエル承認など、新しい国際秩序に関わる重要な決定も行いました。
大統領選と政治スタイル
1948年の大統領選では、世論調査で惨敗と見なされていたにもかかわらず、トルーマンは「行商(whistle-stop)演説」など草の根での活動を通じて当選し、ハリー・S・トルーマンの政治的粘り強さが示されました。彼は率直で実務的な決断を好む政治家として知られ、「フェア・ディール」に代表される国内改革と大胆な外交判断を併せ持っていました。
晩年と評価
1953年に大統領職を退いた後、トルーマンはミズーリ州インディペンデンスに戻り、トルーマン図書館の設立に関わるなど公的記録の保存に努めました。1972年12月26日に死去し、トルーマン図書館の敷地に埋葬されました。
評価は時代とともに変化しました。退任直後は支持率が低迷しましたが、歴史家や政治学者の間では冷戦初期の難しい局面で決断を下した指導力、原爆投下や朝鮮戦争への対処、公民権の一歩などを評価する見方が強まり、上位評価を受けることが多くなっています。
補記
中間名の「S」は特定の名前を表さないとされ、祖父たちの名前(Anderson Shipp Truman と Solomon Young)を受け継ぐ意味で単一のイニシャルが用いられました。
トルーマンの決断の多くは今日も学術的・倫理的な議論の対象であり、第二次世界大戦終結と冷戦体制の確立に深く関わった大統領として、米国史において重要な位置を占めています。



