この選挙はリチャード・ニクソン元副大統領とヒューバート・ハンフリー副大統領の間で争われ、アラバマ州知事のジョージ・ウォレスもアメリカ独立党から出馬しました。選挙日は1968年11月5日で、争点はベトナム戦争、国内の治安(「law and order」)、公民権問題、経済政策などでした。
背景
1960年代後半、アメリカは国内外で深刻な分裂を抱えていました。ベトナム戦争に対する反戦運動、1968年4月のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺による国内の暴動、さらには党大会や街頭での抗議と警察の衝突が続き、有権者の間に不安と疲労が広がっていました。そうした情勢の中で、秩序回復を訴えるニクソン、戦争終結をめざす反戦派(ユージーン・マッカーシー支持者など)、人種分断に訴えるウォレスの三者構図が生まれました。
主要人物と出来事
- 現職のリンドン・B・ジョンソン大統領は再選を目指すことも可能でしたが、1968年3月31日に突如立候補を断念しました。ジョンソンは国民に対して「私はあなた方の大統領としてもう一期、わが党の指名を求めず、受け入れない」と述べました。ジョンソンの撤退は民主党内部の分裂を深めました。
- 副大統領のヒューバート・ハンフリーは民主党の指名を受けましたが、ハンフリーはジョンソン政権のベトナム政策に結びつけられ、特に南部白人有権者の支持を失いました。南部でハンフリーが獲得できた州は僅差で勝ったテキサス州のみでした。
- 当初有力候補であった現職の司法長官ロバート・F・ケネディは、兄であるジョン・F・ケネディ元大統領の弟として1968年の大統領選に強い支持を集めましたが、1968年6月5日(カリフォルニア予備選挙の勝利後)、ロサンゼルスでサーハン・サーハンに銃撃され、事実上選挙戦を終えました。
- また、1968年8月のシカゴ民主党全国大会では、反戦デモと警察の衝突が全国的に報道され、民主党のイメージ低下につながりました。
選挙結果
選挙人投票では、ニクソンが301票、ハンフリーが191票、ジョージ・ウォレスが46票を獲得しました。ウォレスの46票は主に南部のいくつかの州から得られたもので、またノースカロライナ州では一部の非拘束(unpledged)選挙人がウォレスとその副大統領候補のカーティス・ルメイに投票するという動きも見られました。
全国の得票(概数)は次の通りです:ニクソン約31,783,783票(約43.4%)、ハンフリー約31,271,839票(約42.7%)、ウォレス約9,901,118票(約13.5%)。得票率ではニクソンとハンフリーの差は小さく、勝敗は地域ごとの支持の偏りで決まりました。
影響と評価
- ニクソンの勝利は「沈黙の多数(silent majority)」を代表する支持基盤の台頭と解釈され、以後の保守的な動きや「サザン・ストラテジー」(南部白人有権者の支持獲得を重視する戦略)の進展に影響を与えました。
- ウォレスの第三勢力としての参戦は、民主党の伝統的な支持基盤を分断し、ハンフリー側の敗北に大きく寄与しました。ウォレスは人種差別的な言動と州権を強調し、白人労働者層や反政府感情を掴むことで一定の支持を得ました。
- 1968年の出来事(キングとケネディの暗殺、ベトナム戦争、シカゴ大会の混乱)はアメリカ政治の転換点とされ、その後の世代の政治的対立や政策決定に長期的な影響を残しました。
総じて、1968年大統領選は国内の分断と不安を背景にした「秩序回復」を掲げたニクソンの勝利、ベトナム政策と公民権問題がもたらした民主党の分裂、そして第三党の台頭が重なった選挙でした。








