Bárbara of Portugal (発音IPA: ['baɾbɐɐɾɐ]、1711年12月4日 - 1758年8月27日)は、ポルトガル王女で、ポルトガル国王ジョアン(ジョン)5世の娘、ブルガンザ家(ブラガンザ家)出身の王女です。母はオーストリア出身のマリア・アンナ(Maria Anna of Austria)で、のちにスペイン王フェルディナンド6世の王妃となりました。

生い立ちと名前

彼女は1711年12月4日にポルトガルのリスボンで生まれ、洗礼名はマリア・マダレーナ・バルバラ・ザビエル・レオーノール・テレサ・アントニア・ジョセファ・デ・ブラガンサ(Maria Madalena Bárbara Xavier Leonor Teresa Antónia Josefa de Bragança)でした。誕生日の守護聖人である聖バルバラにちなみ、一般にはバルバラまたはマリア・バルバラと呼ばれました。

教育と音楽的才能

幼少期から良好な教育を受け、語学と音楽に優れていました。6ヶ国語を操ったと伝えられ、宮廷の文化活動に熱心に参加しました。とくに鍵盤楽器と声楽を愛し、宮廷に招かれたイタリア出身の音楽家ドメニコ・スカルラッティのもとで学びました。彼女はイタリアの有名なチェンバロ奏者で作曲家でもあるドメニコ・スカルラッティの支援を受け、スカルラッティは彼女のために多くの鍵盤作品を作曲したとされ、これが後の鍵盤音楽史に大きな影響を与えました。

結婚と王妃としての役割

1729年、18歳の時にポルトガルとスペインの同盟の一環として、将来のスペイン王フェルディナンド6世(当時は王位継承者)とスペインのバダホスで結婚しました。夫婦に子供はなく、子孫は残しませんでした。

フェルディナンド6世の即位(1746年)に伴い、バルバラはスペインの王妃(王妃配)となり、宮廷内で文化面や慈善事業の振興に力を注ぎました。芸術家や音楽家を庇護し、王室音楽の発展に寄与しました。

晩年と死後の影響

バルバラは1758年8月27日に王妃としての居城であったアランフェス(Aranjuez)で死去しました。死因は記録によって諸説ありますが、長期にわたる病気のためとされています。遺骸は王室霊廟に葬られ、夫フェルディナンド6世は妻の死後に深い悲嘆に沈み、その心労が元で翌年には廃位や健康悪化につながったと伝えられています。

彼女の文化的・芸術的な遺産は大きく、スカルラッティをはじめとする音楽家への支援や、宮廷での音楽活動の活性化はスペインの宮廷音楽史に長く残りました。また、ドミニカ共和国の地名にも影響を与え、ドミニカ共和国のサンタ・バルバラ・デ・サマナは1756年の設立時に彼女の名にちなみ名付けられました。

評価

歴史家や音楽史家は、バルバラを音楽愛好家かつ有能な宮廷パトロンとして評価しています。王妃としての公的役割は限定的だったものの、彼女の音楽的活動と支援はフェルディナンド6世の治世下における文化的側面を色濃く形作りました。