ボニー・プリンス・チャーリー(チャールズ・エドワード・スチュアート)伝記|1745年ジャコバイト反乱とカロデンの戦い
ボニー・プリンス・チャーリーの生涯を1745年ジャコバイト反乱、カロデンの敗北、逃亡とローマでの晩年までドラマチックに描く決定版伝記。
チャールズ・エドワード・スチュアート(Prince Charles Edward Louis Philip Casimir Stuart, 1720年12月31日 - 1788年1月31日)は、ボニー・プリンス・チャーリーとして、あるいは「若き僭越者」としてよく知られている。
ボニー・プリンス・チャーリーは、ジャコバイトのイングランド、スコットランド、アイルランドの王位継承者である。この主張は、ジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートの長男であり、ジェームズ2世と7世の孫にあたる。
チャールズは、1745年にジャコバイトの反乱を起こし、失敗に終わったことでよく知られている。彼が率いた反乱は、カロデンの戦いで大敗を喫した。これがジャコバイトの戦いを終わらせた。蜂起の後、スコットランドから逃亡したチャールズは、英雄的失敗のロマンチックな人物となった。スカイ・ボート・ソングは、そんな彼を思い起こさせる。
彼は、父がクレメンス11世から家を与えられていたローマで暮らし、そして死んだ。
生い立ちと背景
チャールズは1720年にローマで生まれ、亡命中のスチュアート家の環境で育った。父ジェームズ・フランシス・エドワードは「老人王(The Old Pretender)」と呼ばれ、ジャコバイト派の正統な王位継承者と見なされていたため、チャールズも若くして王位回復を目指す象徴的存在とされた。ローマでは主にカトリックの貴族社会と接しつつ、フランスやスペインなどヨーロッパ諸国の支援を模索する生活を送った。
1745年蜂起の経過
1745年夏、チャールズは主にスコットランドで支持を集めるために海を渡った。到着後、グレンフィナン(Glenfinnan)で支持者に旗を掲げ、ハイランド諸氏族を中心に蜂起は急速に拡大した。
- 1745年9月:エディンバラ占領と、プレストンパンの戦いで大勝利を収め、勢いに乗った軍はイングランド内陸へと進軍した。
- 12月:イングランド南部への到達はドービー(Derby)までに至り、そこが目標地点に比べて遠く、またフランスからの支援が期待通りに来ないことやロイヤリスト(ハノーバー朝側)の反撃の可能性を危惧して、退却が決定された。
- 1746年4月16日:カロデンの戦い(Culloden)で、ハノーバー朝側に壊滅的な敗北を喫した。平地での戦闘や部隊の統率の問題が重なり、ジャコバイト軍は短時間で崩れ去った。
敗北後の逃避行と亡命
カロデンの敗北後、チャールズは捕縛を免れるためにスコットランド各地を転々とし、約5か月にわたる逃避行を経験した。この逃避行の物語は後世にロマンチックに語られ、フローラ・マクドナルド(Flora MacDonald)らの助けを得てスカイ島などを経て、最終的にはフランスへ脱出したと伝えられている。
1746年の逃亡後、彼は再び大規模な武力回復を成功させることはできず、以降もフランスとの協力を模索したが決定的な支援は得られなかった(1759年ごろには新たな上陸計画が検討されたが実現しなかった)。
晩年と私生活
チャールズはその後もヨーロッパ各地で生活したが、最終的にはローマに居を定めた。晩年は公的な実効力を失った「亡命王」として、生涯の大半を宗教的・紛争的な西欧宮廷社会の中で過ごした。
- 私生活では浪費や酒に溺れることがあり、性格には魅力的だが放埒な一面があったと伝えられている。
- 1772年にプロイセン系貴族の出身の女性と結婚したが結婚生活は不幸で子はなく、実際の相続者は生まれなかった。
- また、チャールズは私生児の娘を認知したことがあり、娘は後にチャールズに近い地位で扱われたという史料が残る。
弟ヘンリー・ベネディクト・ステュアート(後の枢機卿)がチャールズの死後にジャコバイト側の王位継承者と見なされた。
評価と遺産
チャールズ・エドワード・スチュアートは政治的には敗北者であったが、文化的・象徴的には大きな影響を残した。スコットランドの民族意識やロマン主義的な歴史観の形成に寄与し、詩歌、歌(特にスカイ・ボート・ソング)、小説、演劇、近現代の映画やテレビドラマなどで繰り返し取り上げられている。
ジャコバイト蜂起の終焉はスコットランド社会の変容を早め、封建的な部族制度やハイランドの伝統的生活に対する英国中央政権の抑圧と同化政策が本格化する契機となった。
主な年表(概略)
- 1720年 - ローマ生まれ。
- 1745年 - スコットランドに上陸し、ジャコバイト蜂起を指導。
- 1746年 - カロデンの戦いで敗北。逃亡の末に大陸へ脱出。
- 1759年ごろ - 新たな上陸計画が検討されるが不成立。
- 1772年 - 結婚(子はなし)。
- 1788年 - ローマで没。
ボニー・プリンス・チャーリーは、歴史的事実と伝説が強く混ざり合った人物であり、その生涯はイギリスとヨーロッパの18世紀政治、スコットランドの地域史、そして民間伝承の中で現在も語り継がれている。
質問と回答
Q: チャールズ・エドワード・スチュアートとは誰ですか?
A: チャールズ・エドワード・スチュアートは、イングランド、スコットランド、アイルランドの王位を狙ったジャコバイト派の僭主で、ボニー・プリンス・チャーリーまたは「若き僭主」としても知られています。
Q: チャールズ・エドワード・スチュアートの父親は誰ですか?
A: チャールズ・エドワード・スチュアートの父親はジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートで、彼もまたイングランド王位僭称者でした。
Q: チャールズ・エドワード・スチュアートはなぜ有名なのですか?
A: チャールズ・エドワード・スチュアートは、1745年のジャコバイト蜂起を率いたことで有名です。
Q: カローデンの戦いの後、ジャコバイト蜂起はどうなりましたか?
A: カローデンの戦いの後、ジャコバイトの反乱は終結しました。
Q: チャールズ・エドワード・スチュアートはスコットランドでの反乱の後、どこに行ったのですか?
A: チャールズ・エドワード・スチュアートは蜂起後スコットランドを脱出し、父親がクレメンス11世から家を与えられていたローマに向かいました。
Q: チャールズ・エドワード・スチュアートはどのように記憶されていますか?
A: チャールズ・エドワード・スチュアートはロマンチックな英雄的失敗の人物として記憶されており、『スカイボートの歌』は彼が記憶される一つの方法です。
Q: チャールズ・エドワード・スチュアートはどこで生き、どこで死にましたか?
A: チャールズ・エドワード・スチュアートはローマで生涯を終えました。
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