イングランドのジェームズ2世/スコットランドのジェームズ2世(1633年10月14日~1701年9月)は、チャールズ1世とフランス王女アンリエット・マリーの次男として生まれ、1660年代以降に英王室で重要な役割を果たしました。王としては、1685年2月6日にスコットランドの王、イングランド王、アイルランド王となり(チャールズ2世の死に伴う即位)、復古王政直後の1660年には諸侯の称号を授けられています(原文ではノルマンディー公とと表記されていますが、一般に復古後の彼はヨーク公(Duke of York)として知られています)。ジェームズは生涯を通じてローマ・カトリックの信仰と深く結び付き、在位中はスコットランド、イングランド、アイルランドの最後のローマ・カトリックの王となりました。
背景と宗教政策
ジェームズは海軍司令官や行政職を歴任し、王位継承前から政治的経験を積みましたが、カトリックへの改宗(あるいは公然化)と、王権による宗教的寛容・カトリックの登用を目指した施策が、広範な反発を招きました。彼はカトリック信仰者や宗教的少数派に対して特権的な配慮を与え、また議会の同意を待たない形で宣言的に信教の自由を拡大しようとしたため、プロテスタントの支配層の不安を大きくしました。
内外の対立とモンマスの反乱
在位初期の1685年、王位に不満を抱く者たちの一派は反乱を起こしました。特にイングランド南西部で起きたドーセット公ジェームズ・モンマスによる反乱(モンマスの乱)は、セドゥームーアの戦いで鎮圧され、多数の処刑や追及が行われました。これらの出来事は、国内の宗教・政治的亀裂を深めましたが、一方で直接の内戦には至らなかったことから、後に「栄光の革命(Glorious Revolution)」と呼ばれる事態へとつながっていきます。ただし「血がまったく流れなかった」という表現は誤りであり、イングランド国内では処刑や弾圧、アイルランドやスコットランドではより激しい戦闘が発生しました。
栄光の革命と退位(1688–1689)
プロテスタントの支配層は、オランダ総督でありジェームズの娘婿でもあるウィリアム(後のウィリアム3世)に求めて1688年に侵攻を招き入れました。ウィリアムの来襲を前に、ジェームズの支持は急速に崩壊し、彼は議会の対抗や軍の離反を受けてフランスへ逃れます(1688年12月)。イングランドでは議会がジェームズの退位を宣言し、1689年にプロテスタントの娘婿であるメアリー2世とウィリアム3世(スコットランドではウィリアム2世)が共同君主として迎えられました。これに対し、ジェームズの「唯一の合法的君主である」という主張はジャコビティビズム(ラテン語のJacobus/Iacobusに由来)として支持者の間に残りました。
アイルランド遠征と敗北、フランス亡命
ジェームズは王位回復を諦めず、1689年にアイルランドへ上陸して現地で支配権を取り戻そうとしました。アイルランドではカトリック勢力を中心に一定の支持を集めたものの、1690年7月のボイン川の戦いではウィリアム軍に敗れ、その後もアイルランドでの抵抗は徐々に押し切られていきました。敗北後、ジェームズはフランスへ戻り、ルイ14世の保護のもとで余生を送り、1701年に亡くなりました。
遺産とジャコバイト運動
ジェームズの死後も、息子のジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアート(通称「The Old Pretender」)や孫のチャールズ・エドワード・スチュアート(「The Young Pretender」「ボニー・プリンス・チャーリー」)らを旗頭に、17世紀末から18世紀前半にかけて何度かジャコバイトによる復権運動が起こりました。これらの試みは一時的に勢いを得たこともありましたが、最終的には失敗に終わり、イギリス本土および王位はプロテスタントの支配が続く形で確立されました。
評価
ジェームズ2世/7世は、個人としては強い信仰心と王権の強化を志向した君主でしたが、その信仰と政策が当時の政治的・宗教的均衡を崩し、退位と亡命をもたらしました。栄光の革命は「立憲王政への移行」「議会主権の強化」といった長期的な影響を与え、近代イギリスの政治体制の形成に決定的な役割を果たしました。

