ハルタカヌート(別表記:カヌート・ザ・ハーディ、時にハーディカヌート、ハーデカヌート、デンマーク語:Hardeknud、生年は約1018年 - 1042年6月8日)は、1035年から1042年までデンマーク王、1040年から1042年までイングランド王であった。彼はカヌート大王とノルマンディーのエマの一人息子で、カヌート家の最後の主要な王の一人として知られる。

出自と即位まで

ハルタカヌートは父カヌート大王の息子として生まれ、幼少期の多くをデンマークで過ごしたと考えられる。父の死後、1035年にデンマーク王に即位し、後にカヌート3世と呼ばれるようになった。しかし北欧・英国内の政治情勢は不安定で、ノルウェー王マグヌス1世(Magnus the Good)との対立や、イングランドにおける異母兄弟間の権力争いが続いたため、ハルタカヌートがすぐにイングランドの実効支配を確立できる状況ではなかった。

イングランドとの関係と王位の獲得

父の死後、イングランドではハルタカヌートの年上の異母兄弟であるハロルド・ハーフートが摂政的立場から実権を握り、1037年には自身で王となった。ハルタカヌートは当初イングランド奪回のための遠征を準備したが、スカンジナビア情勢(特にノルウェーのマグヌス1世との争い)に対処する必要があり、一時的に計画を中止した。やがてハロルドが亡くなったことを受け、ハルタカヌートは1040年にイングランド王として平和的に王位を回復した。

統治の特色と出来事

  • 統治方針:ハルタカヌートは強い王権を志向し、海軍や兵力維持のために課税を強化した。特に艦船の維持費や海上防衛の費用が財政負担となった。
  • 課税と民衆の反発:王は税率を大幅に引き上げたため、不満が高まった。1041年にはウスターの住民が徴税を行っていた王の官吏2人を殺害する事件が起き、これに対してハルタカヌートは厳しい報復措置として街を焼き払ったと伝えられる。
  • 伝説との関わり:有名な伝説であるレディー・ゴディバが裸でコベントリーの街を走り、地元の伯爵に税負担を軽くするよう説得したという物語は、時代背景としてハルタカヌートの重税と結び付けられることがある。
  • 教会との関係:王は教会にも一定の保護と寄進を行った記録があり、最終的にウィンチェスター大聖堂に葬られていることから教会との関係は一面的ではなかった。

後継者問題と死

1041年、ノルマンディー亡命から戻った異母兄弟のエドワード懺悔者(母エマの息子であるエセルレッド・ザ・アンレディ)に対して、ハルタカヌートは臣下となることを望み、エドワードを跡取り候補にする意向を示したと考えられている。ハルタカヌート自身は未婚で子はおらず、後継者問題は重要な政治課題であった。

1042年6月8日、ハルタカヌートはランベスで急死した。死因については史料に揺れがあり、アングロサクソン年代記などの同時代史料は突然の死として記すが、後世の伝承では魚の骨による窒息、脳卒中、あるいは宴席での過度の飲酒など様々な説がある。彼の遺体はウィンチェスター大聖堂に埋葬された。王の死後、イングランド王位はエドワードが継承した。

評価と歴史的意義

ハルタカヌートの統治は、短期間ながらも強権的で重税による民衆の反発を招いたため、史書では概して不評に描かれている。アングロサクソン年代記は「彼が統治している間、王らしい何かを成し遂げたことはなかった」と記す。しかし一方で、デンマークとイングランドをめぐるカヌート朝の最後の時期における統治者として、北海圏の権力構造や王権の維持・移行に重要な役割を果たしたとも言える。彼の死後、イングランドはノルマン朝成立以前の重要な転換点を迎えることになった。

年表(概略)

  • 約1018年:生誕(年代は不確か)
  • 1035年:父カヌート大王の死によりデンマーク王に即位
  • 1037年:ハロルド・ハーフートがイングランド王となる(ハルタカヌートは一時イングランド遠征を中止)
  • 1040年:ハロルドの死によりイングランド王位を回復
  • 1041年:ウスター事件、ノルマンディーからのエドワード帰還を促すなど政治的対応
  • 1042年6月8日:ランベスで急死、ウィンチェスター大聖堂に葬られる。エドワードが王位継承

ハルタカヌートは北海帝国の終焉に関わった人物の一人であり、その短い治世は税制・軍事・王権の問題を通じて当時の社会と政治の緊張を鮮明に示している。