硫黄島の戦い(1945)―名誉勲章受章者27名の記録と戦闘概要

硫黄島の戦い(1945)を名誉勲章受章者27名の記録と戦闘概要で徹底解説。激戦の経緯、英雄の行動、戦術と犠牲を写真・資料で詳述。

著者: Leandro Alegsa

硫黄島の戦いは、第二次世界大戦中の1945年2月19日から3月26日に行われました(作戦名は「オペレーション・デタッチメント」)。アメリカ軍はこの島の飛行場を確保し、太平洋上の長距離爆撃機や戦闘機の支援・緊急着陸地点として利用することを目的に侵攻しました。戦争史上でも最も激烈で血生臭い戦闘の一つとして知られています。

戦闘の背景と目的

硫黄島は本土に近い位置にある小さな火山島で、島内には複数の飛行場と滑走路が整備されていました。米軍にとっては太平洋戦域での前進基地として、またB-29爆撃機の緊急着陸や戦闘機の中継に重要な地点でした。作戦は海兵隊を主力とした上陸作戦で、強力な艦砲射撃と空爆で前方撃破を試みたものの、日本軍の要塞化された陣地は容易には崩れませんでした。

守備側と指揮

島は日本軍の第109師団を中心に守備され、指揮官は陸軍の栗林忠道(ただみち)中将(英語表記は Tadamichi Kuribayashi)でした。栗林は従来の浅い沿岸防御ではなく、地下壕や丘陵地帯・トンネルを活用した「深い防御(ディフェンス・イン・デプス)」を徹底し、上陸地点での壊滅を避ける戦術を採りました。

陣地と戦術

  • 日本軍は島全体にわたって要塞化を進め、対艦砲や機銃陣地だけでなく、滑走路周辺や丘陵に掘り下げられた広大な地下壕とトンネル網(総延長が数キロにわたる)を構築していました。資料によっては約18キロのトンネルがあったとされます。
  • これに対し米軍は海兵隊(主にV Amphibious Corpsに属する部隊)と海軍の艦砲射撃・空軍の支援を組み合わせ、火炎放射器、戦車、突撃隊などを用いて壕を攻略しました。
  • 島南西部の火山性の丘、Mount Suribachi(摺鉢山)は戦闘の重要拠点となり、2月23日に頂上を確保した際の旗揚げはジョー・ローゼンタールによる写真「Raising the Flag on Iwo Jima」として象徴的な情景になりました。

戦闘の経過と損耗

戦闘は36日間(2月19日〜3月26日)に及びました。激しい白兵戦、洞窟内での戦闘、塹壕戦が繰り返され、多くの犠牲を出しました。戦闘終結時の損耗は次のように報告されています:

  • 日本軍:約21,000人が配置され、そのうち約20,000人以上が戦死。捕虜は非常に少なく、報告では約216人が捕虜になったとされています。
  • アメリカ軍:上陸部隊と支援部隊を合わせて死者約6,800人、負傷者約19,000人という大きな損耗を出しました(編成や資料により数値には差があります)。

名誉勲章(Medal of Honor)と硫黄島

戦闘後、硫黄島での行動に対して合計27名の米軍人が名誉勲章を授与されました。その内訳は文献により一致しており、22個が海兵隊員、5個が米海軍の水兵に授与

名誉勲章自体はアメリカ南北戦争中に創設され、米国政府が軍人に授与する最高位の栄誉です。受章は、敵に対して任務を超える行為をし、自己の生命を危険にさらした明確な行為が認められた場合に限定されます。その性質上、受章者が戦死した後に追贈されることが多く、硫黄島での27個のうち多くも戦死後の授与でした。

戦闘の意義と遺産

硫黄島の戦いは戦術・戦略の面で多くの教訓を残しました。海上からの長時間の艦砲射撃や空爆だけでは、深く掘られた陣地や頑強な防御陣を壊滅させるには不十分であること、そして上陸作戦における歩兵と支援火力の綿密な連携の重要性が示されました。

また、写真「Raising the Flag on Iwo Jima」は戦時下の米国民に大きな精神的影響を与え、戦後にはワシントンD.C.に建てられた「United States Marine Corps War Memorial(海兵隊記念碑)」のモデルともなりました。硫黄島は今日、戦没者の慰霊、日米両国の歴史的検証、遺骨収容・返還といった場としても重要な意味を持ちます。

補足(参考的事項)

  • 作戦名:オペレーション・デタッチメント(Operation Detachment)。
  • 主な米軍指揮系統や参加部隊は、海兵隊を中核とする上陸部隊と大規模な艦隊支援で構成されました。
  • 栗林忠道中将ら日本側指導のもと、組織的に地下壕とトンネルで戦う戦術が採られました。

硫黄島の戦いは、その激烈さと犠牲の大きさ、そして多くの勇敢な行為があったことから、戦史上および記憶の上で非常に大きな位置を占めています。名誉勲章受章者27名の記録は、個々の行為と同時に、その戦闘の過酷さと兵士たちの犠牲を物語る重要な資料です。

質問と回答

Q:アメリカの硫黄島侵攻作戦は何という名前ですか?


A:アメリカの硫黄島侵攻作戦は「デタッチメント作戦」と呼ばれていました。

Q:戦闘開始時の日本兵は何人でしたか?


A:戦闘開始時、21,000人の日本兵がいました。

Q: 何人の日本兵がこの戦闘で生き残ったのですか?


A:生き残った日本兵はわずか216人でした。

Q:硫黄島の戦いが完了するまでにどれくらいの時間がかかりましたか?


A: 硫黄島の戦いは2ヶ月間続きました。

Q: この戦いから第二次世界大戦の海兵隊員に贈られた名誉勲章は何個ですか?


A:第二次世界大戦で海兵隊員に授与された名誉勲章のうち、実に30%(82個中25個)がこの戦いで授与されたものです。

Q: 名誉勲章とは何ですか?



A: 名誉勲章は米国政府から軍人に贈られる最高の軍事的勲章です。敵軍との戦闘において、自らの生命を危険にさらしながら、期待される以上の優れた働きをした場合に授与される。また、必要に応じて死後に授与されることもある。


百科事典を検索する
AlegsaOnline.com - 2020 / 2025 - License CC3