ルイ=ジャン=マリー・ド・ブルボン(1725年11月16日 - 1793年3月4日)は、ルイ=アレクサンドル・ド・ブルボン(伯爵ド・トゥーロン)とその妻マリー=ヴィクトワール・ド・ノアイユの長男として生まれた。父ルイ=アレクサンドルはフランス王ルイ14世とその愛妾モンテスパン夫人との庶子であり、ルイ=ジャン=マリーはその孫にあたる。生まれた時からパンティエーヴル公爵(duc de Penthièvre)の称号を名乗り、生涯にわたり数多くの爵位と広大な領地・財産を保持したため、当時のフランスで最も裕福な人物の一人と見なされた。
経歴と家系
パンティエーヴル公爵は正統な王族とは異なる「庶子の系譜」に属しつつも、王家との強い結びつきを持っていたため社会的地位は高かった。公爵は生涯を通じて多くの尊称と資産を受け継ぎ、当時の上流社会で重要な存在となった。後にフィリップ・エガリテの義理の父となり、娘を通じてオルレアン家と結びつくことになる。
財産と相続
彼の莫大な財産は主に父からの相続によるものであるが、その一部は古い王侯家の遺産や縁戚関係を通じて受け継がれたものであり、たとえばラ・グランド・マドモアゼルを通じて入った財産も含まれているとされる。こうした資産により、パンティエーヴル家は広大な不動産と多額の収入を得て、社交界や地方社会において大きな影響力を持った。
家族と子女
公爵は生涯に数人の子をもうけたが、多くは幼くして夭折した。成年に達した子の中で最も知られているのは、唯一長生きした娘ルイーズ=マリー=アデライドで、彼女は後にオルレアン家の当主ルイ=フィリップ2世(通称フィリップ・エガリテ)と結婚した。この結婚により、パンティエーヴル家の資産や血筋はオルレアン家に深く結びつくことになった。
慈善活動と評価
パンティエーヴル公爵は生前、貧しい人々に対して寛大であったことで知られている。膨大な資産を背景に、領地内や周辺で救貧・施療・寄付などの慈善的行為を行い、当時の庶民からも一定の尊敬を受けた。こうした人柄は、革命前後の混乱期にも家名や財産の評価に影響を与えた。
遺産と記念
公爵はまた、後にドリューの王室礼拝堂が建てられることになる土地も所有していた。実際の礼拝堂(シャペル・ロワイヤル・ド・ドルー)は彼の死後、娘とオルレアン家によって整備され、オルレアン家の霊廟として用いられることになる。パンティエーヴルの死とその資産はフランス革命期の政変や財産没収の影響を受けたが、彼の名前と残した慈善業績は後世にも語り継がれている。
総じて、ルイ=ジャン=マリー・ド・ブルボン(パンティエーヴル公爵)は、王室の庶子としての出自と莫大な私財を背景に、18世紀フランス社会で特異な地位を占めた人物であり、その遺産はフランスの貴族社会と地方史に大きな足跡を残した。

