オルレアン公フィリップ(Louis Philippe Joseph; 1747年4月13日 - 1793年11月6日)は、オルレアン家の一員であり、フランス王室内の有力な分家の長として知られた。もともとは世襲の公爵として貴族的な立場にあったが、後に政治的に急進的な立場をとり、フランス革命を支持して自らをフィリップ・エガリテと名乗った。その後の革命情勢の混乱のなかで、テラーの支配時に逮捕され、最終的にギロチンにかけられ処刑された。息子のルイ・フィリップは、1830年の七月革命後にフランス王となり、家名はフランス近代史において重要な役割を果たした。彼自身は王族としての立場にあり、外からは血盟皇太子の地位にある人物と見なされていた。
生い立ちと私生活
1747年に生まれたフィリップは、オルレアン家の伝統的な教育を受け、軍や宮廷での経験を積んだ。私生活では奔放な嗜好と多くのスキャンダルで知られ、財政的には娘婿を通じて富を得た側面もあった。彼は財産の多かったブルボン=ペンティエーヴル家の相続と結婚を通じて家の財政基盤を強化し、子孫としては後に国王となるルイ・フィリップをはじめ複数の子をもうけた。
革命期の立場と活動
フィリップは当初から絶対王政の改革や自由主義的な考えに共鳴する立場を示し、革命初期には改革派に接近した。社交界や政治サークルを通じて革新的な議論に参加し、やがて公に革命側を支持する立場を明確にしたため、伝統的な王室や保守派からは批判を受けた。自らを「エガリテ(平等)」と名乗り、象徴的に旧秩序から距離を置く姿勢を示した。
ルイ16世の裁判に際しては、親族であるにもかかわらず処罰を支持する投票を行ったとされる(議会での賛否は当時の政治的背景で厳しく注視された)。しかし、この処遇は彼を革命指導部から完全に守るものではなく、逆に疑惑と敵意を招くことになった。
逮捕・裁判・処刑
1793年、革命内の権力闘争と粛清が激化するなかで、フィリップは反革命の嫌疑をかけられて逮捕された。革命裁判にかけられ、最終的に有罪とされ、1793年11月6日に処刑された。彼の処刑は、革命がどれほど包括的に「旧体制」の人物を排除しようとしていたかを象徴する出来事として記憶される。
評価と遺産
フィリップ・エガリテは、当時としては異例の立場――王族でありながら革命を支持した貴族――を取った人物として歴史的に注目される。彼の支持は革命運動の幅を一時的に拡大したが、最終的には身分や出自がかえって彼を救わなかった。息子ルイ・フィリップの即位(1830年)は、オルレアン家が革命と王政復古という両方の政治的潮流に関わりながら生き残った例とされる。
今日の歴史研究では、フィリップの行動は個人的な野心、家族戦略、啓蒙的・自由主義的信念が絡み合った結果として解釈されることが多い。彼の生涯は、革命という大きな潮流のなかで貴族がどのように対応し、またその結果どう扱われたかを示す重要な事例である。