ペドロ・アルバレス・カブラル(1467頃–1520):ブラジル発見のポルトガル探検家と航海業績

ペドロ・アルバレス・カブラルPedro Álvares Cabral, c. 1467 or 1468 Belmonte - c. 1520 Santarém)は、ポルトガルの貴族、航海探検家であり、ヨーロッパ人として初めてブラジルを訪れた(1500年4月22日)。生年は確定しておらず、1467年頃とするのが一般的である。貴族としての地位と海上での経験を背景に、当時のポルトガル王室から大規模な航海の指揮を任されることになった。

出発と航路

ポルトガル国王マヌエル1世は、カブラルをインド遠征に派遣した。カブラルは1500年3月9日、13隻からなる艦隊を率いて、先にインドへ到達していたヴァスコ・ダ・ガマの航路を踏襲する形で出航した。ポルトガルは当時、インド洋貿易の掌握と香辛料貿易の確保を第一の目的としており、カブラルの遠征にも交易契約と領土確保が期待されていた。

ブラジル発見と上陸

1500年4月22日、カブラルの艦隊は南大西洋の沿岸で新たな陸地を発見し、これをポルトガル王室のために領有宣言した。彼は最初にこの地を「Vera Cruz(真の十字架の島、当初は“真の十字架”)」と名付け、その後王室により「Terra de Santa Cruz(聖十字の地)」と呼ばれた。さらにこの地で採れる赤い染料を取る木(パウ・ブラジル)にちなみ、後に「ブラジル」と呼ばれるようになる。上陸地については、現在の学界でも議論があり、バイーア州のモンチ・パスコアル(Monte Pascoal)やポルト・セグーロ(Porto Seguro)周辺が有力候補とされている。

上陸時、カブラルは現地の先住民と接触し、交易や儀礼的な交換を行った記録が残る。彼らはヨーロッパ人が「発見」する以前からこの地に定住していた先住民族であり、トゥピ系民族などが広く分布していた。カブラルはブラジルにおよそ10日間滞在し、地図作成や補給、領有の儀式などを行った後、インド行きの航海を再開した。

インド航海と困難

ブラジル出航後、カブラルの艦隊は南東方向へ進路を取り、喜望峰付近を通過した際に激しい嵐に遭遇して艦隊は大きな損害を被った。嵐や座礁、分離により艦隊は分断され、一部の船は失われた。インド到着後、カブラルは交易のためにコジコデ(Calicut)やコーチン(Cochin)とされる港を訪れたが、特にカリカット(コジコデ)では地元のイスラム商人らとの衝突が発生し、ポルトガル側は大きな損害を受けた(この衝突でカブラルの部下約50人が犠牲になったと伝えられる)。

一方で、コーチンでは香辛料交易を成立させることに成功し、香辛料積載の船を用意した。カブラルはインド西岸での交易拠点確立の足がかりを築いたが、艦隊の損耗と王室側の期待に見合う成果をめぐる評価は分かれた。

帰国とその後

1501年6月23日、当初の13隻のうち、香辛料を満載してポルトガルに帰還したのは5隻だけであった。帰還後、マヌエル1世はカブラルに対してさらにインド遠征の指揮を要請したが、カブラルはこれを辞退したため、次の遠征指揮官には再びバスコ・ダ・ガマを任命した(1502年)。

晩年と死

その後、カブラルは公務から退き、サンタレンにある自邸に引きこもった。記録は限られるが、1520年頃に没し、ポルトガルのサンタレンにある修道院に埋葬されたと伝えられる。没年や晩年の詳細については史料の差異があり、正確な日付は不確かである。

評価と遺産

  • ブラジルの「発見」:カブラルの上陸はヨーロッパ諸国の地理認識を大きく変え、ポルトガルによる南米東岸の領有権確立につながった。ただし「発見」という表現は先住民の存在を無視するため、現代では慎重に扱われる。
  • 香辛料貿易と海上帝国:カブラルの航海はポルトガルのインド洋での覇権確立の一過程であり、インド洋商業における軍事的・外交的摩擦の一例を示している。
  • 史料と論争:上陸地の正確な位置、艦隊の被害状況、カブラルの個人的評価などは研究者間で議論が続いている。史料の断片性と、当時の記録の偏りが原因である。

ペドロ・アルバレス・カブラルの航海は、15世紀末から16世紀初頭にかけての大航海時代を象徴する出来事の一つであり、ブラジルという国名の起源とポルトガルの海外進出史において重要な位置を占めている。

質問と回答

Q: ペドロ・アルバレス・カブラルとは何者か?


A: ペドロ・アルバレス・カブラルはポルトガルの貴族で、ヨーロッパ人として初めてブラジルを見た航海士であり探検家です。

Q: 彼はいつブラジルの陸地を見たのですか?


A: 1500年4月22日にブラジルの陸地を確認しました。

Q: マヌエル1世はこの新しい土地にどんな名前をつけたのですか?


A: マヌエル1世は当初、この新しい土地を「真の十字架の島」と名付けましたが、後に「聖なる十字架」と改名しました。最終的には再び「ブラジル」に改名されました。

Q:インドへの旅で何があったのですか?


A: カブラルはインドへの旅で、喜望峰での嵐と船の破壊、インドのカリカットでのイスラム商人との戦い(この攻撃でカブラルの部下50人が殺された)に苦しみました。

Q: 彼はどこで香辛料貿易に成功したのですか?


A: インドのコチン(現在のコジコジ)で香辛料貿易に成功しました。

Q: 彼の遠征から何隻の船が帰ってきたか?


A: 13隻のうち5隻しか戻ってきませんでした。

Q: マヌエル1世は、なぜカブラルではなく、ヴァスコ・ダ・ガマを次の遠征の指揮官に任命したのか?


A: カブラルはインドから帰国後、次の遠征の指揮を拒否したため、マヌエル1世は代わりにヴァスコ・ダ・ガマを任命したのである。

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