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教皇ヨハネス15世(在位985年–996年)

教皇ヨハネス15世は985年から996年までローマ教会を率いた。ランスをめぐる論争をはじめとする世俗統治者との緊張、10世紀後半のイタリアとフランスの政治情勢への対応で知られる。

概要

教皇ヨハネス15世は、985年8月から996年3月に没するまでローマ司教を務めた。その在位は、教皇庁がローマの有力者から強い影響を受ける一方、西ヨーロッパで台頭しつつあった王家やドイツの皇帝宮廷の要求にも対応していた激動の時期に当たる。彼は、一般にローマで生まれ、ローマで没した。その地は通例教皇領と呼ばれる領域の内にあり、彼の在位期には世俗の王と教会権威の関係が変化していた。

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背景と選出

ヨハネス15世が教皇位に就いた時代には、ローマの貴族家門と外国の君主の双方が教皇選出を左右しようとしていた。10世紀後半は、地域の貴族氏族、改革志向の修道院運動、大陸の支配者がいずれも教皇の選出と独立性に影響を及ぼした時期として、歴史家によってしばしば特徴づけられる。教皇としてのヨハネス15世は、教皇管轄権の限界、大司教座の権威、司教任命をめぐる継続的な緊張を受け継いだ。

ランス論争

ヨハネス15世の在位中でもっとも重要な出来事の一つは、ランス大司教座を中心とする争いであった。991年の前後、ランスのアルヌルフをめぐって対立が展開した。この問題では、西フランクの新たなカペー朝の王による世俗的介入が中心的な役割を果たした。ユーグ・カペーら世俗権力者は991年にランスで公会議を召集し、アルヌルフを罷免して、後に教皇シルウェステル2世となる有力な学者オーリヤックのジェルベールを推挙した。この事件は、王権、地方教会会議の見解、ローマへの上訴の間に生じた衝突を露呈した。同時代人は各陣営による激しい非難と鋭い言辞を記録しており、この事件は王や貴族が司教任命に影響を及ぼそうとしたことを示す例として注目される。

教皇としての活動・対外関係・統治

ヨハネス15世の統治は、教会法上の手続きと政治的現実との均衡を図らなければならなかった。彼は教皇庁書記局の日常業務として書簡、裁定、確認文書を発給し、司教や貴族からの上訴を扱った。その在位は、ドイツ皇帝オットー3世の未成年期、およびカペー朝の下でフランス王権が再編される時期と重なる。こうした外交環境において、ローマは道徳的指導力を主張しようとしたが、近隣の世俗権力によってしばしば制約を受けた。

死去と継承

教皇ヨハネス15世は996年3月、ローマで死去した。当地は通常教皇領と称される領域内にあり、皇帝の称号がイタリアの問題で影響力をもった時代でもあった(神聖ローマ帝国)。その後まもなく、グレゴリウス5世が後継者となった。彼はドイツ皇帝宮廷がローマの事柄に再び深く関与したことを反映する教皇候補であった。この継承は、教皇庁への影響力をめぐるローマの地方的利害と外国君主との継続的な競合を浮き彫りにした。

遺産と意義

ヨハネス15世の教皇職は、大規模な改革よりも、10世紀後半の教皇庁が抱えた脆弱性と、霊的権威と世俗権力の複雑な相互関係を典型的に示した点で記憶されている。ランスの事件は、叙任と司教任命における教皇介入の限界をめぐる中世の論争の例として、今日でもしばしば引き合いに出される。したがって彼の在位は、後により体系的な教会統治改革を促すことになる政治的・教会的問題を理解するための明瞭な窓口を歴史家に与えている。

  • 在位:985年–996年。
  • 主な論争:ランスのアルヌルフとオーリヤックのジェルベールをめぐる罷免・後任任命の主張。
  • 背景:西フランクにおけるカペー朝の台頭と、イタリアおよび教皇庁の問題へのドイツ皇帝権力の積極的関与。

この時期の教皇政治とランス事件についてさらに読むには、10世紀後半の教会史に関する専門研究、およびオーリヤックのジェルベールが自身の教皇選出に至る前の経歴を扱う記述を参照されたい。

関連項目:教皇制ローマ教皇領神聖ローマ帝国、ユーグ・カペー。

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AlegsaOnline.com 教皇ヨハネス15世(在位985年–996年)

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