教皇領(教会国家)—ローマ教皇の領土史(8世紀〜1870年)
教皇領(教会国家)8世紀〜1870年の領土史を、ローマ教皇の統治・イタリア統一・バチカン誕生の視点で分かりやすく解説。歴史の動きを辿る決定版。
教皇領は、正式には教会国家(イタリア語:Stato della Chiesa、ラテン語:Status Ecclesiasticus、Dicio Pontificia)であり、8世紀から1870年まで、イタリア半島にあった教皇の直接統治下にある一連の領土を指します。教皇は宗教的な最高指導者であると同時に、これらの領土における世俗的(世俗権力としての)君主でもありました。
起源と成立
教皇領の成立は8世紀の政治的変動と深く結びついています。フランク王国の支援を受けたペピン(ペピン短王)が教皇に対して行った「ペピンの寄進」(754年–756年)が、後の教皇領の基盤となりました。この寄進により、教皇はローマ周辺から中部イタリアにかけての領土を獲得し、以後数世紀にわたり領土を拡大・再編しながら世俗的統治を行いました。
中世から近世の展開
中世を通じて教皇領は、ローマ・ラツィオ地方を中心に、ウンブリア、マルケ、ロマーニャ、エミリアの一部などに及びました。しかし領土支配は常に一枚岩ではなく、有力貴族や都市国家(フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなど)、さらには神聖ローマ帝国との関係の中で度々争われました。14世紀から15世紀にかけてのアヴィニョン捕囚(1309–1377年)など、教皇がローマを離れる出来事もありましたが、教皇領の領権自体は維持され続けました。
近世には教皇は教会内の制度を通じて領土を直接統治し、しばしば総督(レガート)や代理官を派遣して行政を行いました。また教皇庁は造幣、税制、軍事力の行使や都市の治安維持など世俗的機能を持ち、芸術・建築の庇護者としてルネサンス期にはローマの大規模な復興や教会建築を主導しました。
近代の危機と消滅(1798–1870)
18世紀末から19世紀にかけてのヨーロッパ革命とナポレオン戦争は教皇領に大きな打撃を与えました。1798年にナポレオン軍はローマに進軍して教皇領を一時消滅させ、ローマ共和政を樹立しました。1814年のウィーン会議後には教皇領は復活しましたが、19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)の進展に伴い、教皇領の領土は次第に削られていきます。
1859–1860年の戦争と一連の併合で、多くの教皇領はサルデーニャ王国(後のイタリア王国)に華々しく併合されました。1861年にイタリア王国が成立すると、教皇領は形骸化しましたが、ローマとその周辺(ラツィオ)は依然教皇の手に残りました。1870年9月、普仏戦争の混乱を背景にイタリア王国はローマを占領し、教皇はラツィオとローマを失いました。以後、教皇はバチカン(バチカン宮殿と周辺)を除いて実際の領土を持たない状態となり、自身を「バチカン内の囚人(prisoner in the Vatican)」と宣言しました。
その後の処理と意義
1870年以後、教皇とイタリア王国との関係は長年にわたって未解決のままでしたが、1929年のラテラノ条約によりバチカン市国が独立国家として承認され、教皇の主権は新たな形で回復されました(ただしこれは1870年以後の出来事です)。
影響と評価
- 政治的側面:教皇領は教皇の世俗的権力の源泉であり、中世から近代にかけてイタリア政治に大きな影響を及ぼしました。
- 文化的側面:教皇庁は芸術や建築の主要なパトロンであり、特にルネサンス期にはローマを文化の中心地へと導きました。
- 近代史への位置づけ:イタリア統一運動は教皇領の終焉と密接に結びつき、近代イタリア国家の成立に重要な役割を果たしました。
まとめると、教皇領(教会国家)は約千年にわたりイタリア半島の政治・宗教・文化に深い足跡を残しました。1870年のローマ奪取はその長い世俗支配の終焉を意味しますが、教皇庁の影響はその後も宗教的・文化的に続き、20世紀には新たな主権形態(バチカン市国)として再編されました。
関連ページ
百科事典を検索する