ヒュー・モンタギュー・トレンチャード(1873–1956)|英国空軍の父・第1子爵・警視庁長官
英国空軍の父・第1子爵ヒュー・トレンチャード(1873–1956)。RAF創始、航空改革、警視庁長官として近代英国の防衛と治安を築いた生涯を紹介。
イギリス空軍元帥 Hugh Montague Trenchard, 1st Viscount Trenchard GCB OM GCVO DSO(1873年2月3日~1956年2月10日)は、第一次世界大戦期において1915年8月から1918年1月まで王立飛行隊(RFC)を指揮したイギリス陸軍の将校であり、1918年3月に創設された王立空軍(RAF)の基礎を築いた中心人物として知られる。1912年に飛行機操縦を学び、1919年に航空幕僚長(Chief of the Air Staff)に就任して航空省の再編に尽力した。
軍歴と第一次世界大戦での役割
トレンチャードは早期に航空に関心を持ち、1912年に飛行を学んで以降、航空部門での指揮を務めた。1915年以降は西部戦線を中心に王立飛行隊(RFC)の組織と運用の立て直しを行い、前線における偵察・通信・航空支援の体制を強化した。戦時中の経験を通じて、航空戦力の独立性と継続的な整備・訓練の重要性を強く認識するようになった。
航空行政と「英国空軍の父」としての遺産
1918年のRAF創設後、トレンチャードは新設組織の在り方や航空力の役割を巡る議論で中心的な存在となった。1919年に航空幕僚長に就任すると、航空省の組織再編や訓練制度の整備、常設の空軍力維持に向けた方針策定に取り組み、独立した空軍が国防政策の一部として機能する基盤作りに貢献した。この功績から、しばしば「英国空軍の父」と称される。
トレンチャードは軍事戦略として空中戦力の重要性を強調し、訓練・規律の徹底と指揮系統の明確化を重視した。一方で、彼の提起した戦略(長距離爆撃を含む航空の戦略的使用)には賛否があり、歴史的には賛同と批判の両面から評価されている。
警視庁長官としての活動
軍を退いた後、トレンチャードは1931年から1935年まで警視庁長官を務めた。警視庁長官は、権限が一般に大ロンドンに限定されるにもかかわらず、国内で最も著名かつ有力な警察指導者の一人である。トレンチャードは警察行政に対しても規律と組織改革を重視し、近代的な運営の基礎整備に寄与した。
人物像と評価
トレンチャードは強い意志と実務志向を併せ持つ指導者として知られ、規律、訓練、組織の重要性を繰り返し説いた。彼の指導はしばしば断固たるものと受け止められたが、それによって新設の空軍が早期に機能を持つ常設軍として整備される基礎が築かれた。歴史的評価は高く、軍事史や航空史において重要な人物と位置づけられている。
称号・受章と晩年
トレンチャードは複数の勲章と栄誉を受け、晩年まで公職や防衛問題への助言に関わった。彼の遺産は英国の空軍組織や航空政策に長く影響を与え続けている。

ウィリアム・オルペンによるトレンチャードの肖像(1917年5月13日
キャリア
少年時代のトレンチャードは、勉強が苦手だった。何度も試験に落ちて、やっとの思いで英国陸軍に将校として入隊したのである。トレンチャードは、まず陸軍でインドに行き、その後、ボーア戦争で戦いたいので南アフリカに行きたいと申し出た。その際、トレンチャードは胸を撃たれ、腰を痛めてまともに歩けなくなってしまった。イギリスに戻ったトレンチャードは、医師から「イギリスよりも空気がいいからスイスに行きなさい」と言われた。トレンチャードは退屈しのぎにボブスレーを始めた。急カーブで転倒したトレンチャードは、腰が治ったことでまともに歩けるようになった。さらに体調が良くなったトレンチャードは、南アフリカでの戦争に復帰した。
1912年、トレンチャードは飛行を学び、王立飛行隊に入隊した。1915年から1917年まで、フランスの王立飛行隊の責任者を務めた。1918年には、短期間ではあるが、英国空軍の初代責任者となった。その後、彼はフランスに戻り、英国空軍によるドイツへの爆撃を引き継いだ。ウィンストン・チャーチルは、1919年に彼を英国空軍の責任者に戻した。それからの10年間、トレンチャードは空軍の訓練基地を立ち上げ、大英帝国の一部で法を執行するために使われるようにした。1930年代、トレンチャードはロンドンの警察(メトロポリタン・ポリス)の責任者であり、年老いた彼は大きなRAFを維持するよう主張した。現代では、トレンチャードは戦略爆撃を最初に主張した人物の一人であるという人もいる。
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