アルバート・C・ウェデマイヤー:第二次世界大戦の米陸軍将軍・中国戦線司令官
アルバート・C・ウェデマイヤー:第二次世界大戦で米陸軍将軍として中国戦線を指揮し、勝利計画や空輸作戦で歴史を刻んだ生涯と功績を詳述。

アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍(Albert Coady Wedemeyer, 1897–1989)は、第二次世界大戦期および戦後におけるアメリカ陸軍の有力な参謀兼計画者の一人です。戦争計画、特にヨーロッパでの作戦構想や中国における連合軍の指揮・調整に深く関与し、戦後の対中政策にも影響を与えました。
生い立ちと軍歴の初期
ウェデマイヤーは1897年7月9日、ネブラスカ州オマハに生まれ、ウエストポイントのアメリカ陸軍士官学校を1919年に卒業しました。卒業後は陸軍に勤務し、参謀職や計画部門での経験を積み、次第に戦略立案の能力を高めていきました。
第二次世界大戦中の主な仕事
第二次世界大戦開戦後、ウェデマイヤーは1941年に臨時中佐となり、1941年から1943年にかけて米国陸軍省の戦争計画課(War Plans Division)で要職を務めました。彼は、ヨーロッパ戦線におけるドイツ撃破を最優先とする「1941年勝利計画」の主要執筆者の一人であり、この「Victory Program」はアメリカが参戦したのち採用され、拡大されました。ノルマンディー侵攻などの連合軍作戦計画にも貢献しています(ノルマンディー侵攻に関する記述はこちら)。
1943年には東南アジア劇場の連合国最高司令官であるマウントバッテン卿(SEAC)の参謀長として任命され、同地域での作戦調整に携わりました。
中国戦線での指揮と活動
1944年から1946年にかけて、ウェデマイヤーは蒋介石将軍の参謀長として活動し、SEAC司令部の下で在中国米軍(USFCT:United States Forces China)の司令官を務めました。ジョセフ・スティルウェルの後任として実働的指揮を引き継ぎ、中国国内での国民党軍との協力、物資補給、訓練計画の立案を担いました。
当時、インドと中国を結ぶ物資補給は航空輸送に大きく依存しており、ウェデマイヤーはヒマラヤ越えの空輸路(いわゆる「ハンプ」)や、インドから中国への空輸網の運用について詳しい知識を持っていました。この空輸は、中国の国民党軍および第20空軍への補給に不可欠であり、マッターホルン作戦(Operation Matterhorn)などの作戦と連携していました(中国戦線における空輸の重要性はヒマラヤを越えての記述を参照)。
戦後の業績と政策提言
戦後、ウェデマイヤーは陸軍の計画・作戦部の要職に就き、1948年のベルリン危機の際には、空輸作戦(ベルリン航空橋)を支持しました。彼は中国での空輸作戦の経験から、空輸による都市封鎖打破の有効性を理解しており、その知見はルシウス・D・クレイ将軍が指揮したベルリン空輸の支持に生かされました。初期の作戦はウィリアム・H・トナー中将が指揮しましたが、後にトナーはベルリン空輸の責任者に任命されました。
また、ウェデマイヤーは中国に関する報告書(通称「ウェデマイヤー・レポート」)をまとめ、アメリカが中国国民党政権を支援しつつ政治・軍事改革を促すべきだとする提言を行いました(1947年の対中政策勧告)。これらの提言は一部で実施されましたが、中国国内の政治状況や米国側の対応の限界により十分には実現しませんでした。
退役後と晩年
ウェデマイヤーは1951年に陸軍を退役し、1954年には退役将官として将軍(full general)の階級に昇進しました。戦後も軍事・国防分野での見識は評価され、対共産圏政策や軍事計画をめぐる議論で言及されることがありました。1989年12月17日、バージニア州フォート・ベルボアで死去しました。
人物像と評価
ウェデマイヤーは優れた計画者・参謀として知られ、戦略的視点と現場での輸送・補給に関する実務知識を併せ持っていました。特に中国での経験は戦略的示唆を多く残し、ベルリン航空橋など後の空輸作戦にも影響を及ぼしました。一方、対中政策に関する彼の提言は、実際の政治情勢との乖離や支援の限界から批判や議論を招くこともあり、歴史的評価は多面的です。
家族
ウェデマイヤーの息子、アルバート・ダンバー・ウェデマイヤーは米陸軍の大尉であり、退役後に中央情報局(CIA)の業務に関与したとされています。
ウェデマイヤーの経歴は、戦略立案から現地指揮、そして戦後の政策提言に至るまで幅広く、20世紀半ばの米軍・米外交政策を理解するうえで重要な人物の一人です。
質問と回答
Q:アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍の出身地はどこですか?
A: アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍は1897年7月9日にネブラスカ州オマハで生まれました。
Q: ウェストポイントの陸軍士官学校を何年に卒業したのですか?
A: アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍は1919年にウェストポイントの米国陸軍士官学校を卒業しました。
Q: 1941年から1943年の間、彼はどのような役職に就いていたのですか?
A: 1941年から1943年の間、アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍はアメリカ陸軍省の戦争計画部門の幕僚として勤務していました。
Q: 第二次世界大戦中、彼はどのような計画の作成を手伝ったのですか?
A: 第二次世界大戦中、アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍は、ヨーロッパのドイツ軍敗北を提唱する1941年の勝利計画の作成に貢献しました。
Q: 1943年から1946年の間、彼は誰の参謀長だったのですか?
A: 1943年から1946年の間、アルバート・コーディ・ウェデマイヤーは東南アジア地域の東南アジア司令部(SEAC)の連合軍最高司令官であったマウントバッテン卿の参謀長を務めました。
Q: 米軍中国大陸司令官時代には、どのような作戦を熟知していたのでしょうか?
A: アルバート・コーディ・ウェデマイヤー将軍は米中戦線司令官として、インドからヒマラヤを越えて中国に入り、マッターホーン作戦に従事する中国国民軍と米第20空軍に供給する連合軍の空輸について深い知識を持っていたのである。
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