マスポーク(Masovni pokret、クロアチア語)またはクロアチアの春は、1971年にユーゴスラビアのクロアチア社会主義共和国で起こった民族主義的・自治要求を含む政治的運動である。運動の要求には、セルビア語の排除とクロアチア語の優先的使用(ラテン文字の強調を含む)、クロアチアを民族的・文化的共同体としての位置づけの明確化、中世クロアチア王国の伝統に基づく国家的アイデンティティの回復などが含まれていた。最終的な目標を「クロアチアのより大きな自治あるいは独立」と理解する向きもあり、運動はクロアチア共産党内の改革派、共和国の政治指導者、知識人・学生、市民団体、そして一部の西側のウスタシ移住者からの支持を受けた。

背景と主張

1960年代末から1970年代初頭にかけて、クロアチア国内には経済的不均衡、地方産業の伸び悩み、中央(ベオグラード)による政策決定への不満が広がっていた。文化面では、言語・教育政策を巡る対立が強まり、クロアチア語の扱いやラテン文字の使用をめぐる議論が活発になった。マスポークはこうした不満を背景に、以下のような主張を提示した。

  • クロアチアの経済的自立性と地域開発の強化。
  • 教育や行政におけるクロアチア語の明確な位置づけと、セルビア語(キリル文字を含む)への過度な依存の是正。
  • 歴史的・文化的伝統の尊重と、それに基づく自治的な政治的評価。
  • 中央集権的政策への反対と、共和国レベルでの決定権拡大。

展開と主要人物

運動は学生や知識人の活動、出版物や公開集会を通じて広がり、1971年には大規模な集会やデモが起きた。クロアチア共産党内の改革派指導者として知られたサフカ・ダブチェヴィッチ=クチャル(Savka Dabčević-Kučar)やミコ・トリパロ(Miko Tripalo)らが一定の支持を受け、共和国当局内でも影響力を持つに至った。一方で、より急進的な国家独立を志向するグループや、海外の亡命者(中には旧ウスタシ運動に関係する者もいる)が運動を後押しする場面もあった。

弾圧とその経過

中央当局(ユーゴスラビア共産党指導部)とヨシップ・ブロズ・ティトーの介入により、1971年末までに運動は強く抑え込まれた。主要な改革派指導者は辞任・失脚させられ、多数の知識人や活動家が解任、逮捕、あるいは職を追われた。フラニョ・トゥジマン(Franjo Tuđman)など民族主義的と見なされた人物も弾圧の対象になった。メディアや学術界に対する検閲・統制が強まり、公的な言説空間は引き締められた。

影響と歴史的意義

短期的には運動は失敗に終わり、指導者や幹部の粛清を通じて中央による統制が強化された。しかし長期的には、マスポークが提示した多くの問題点(民族的アイデンティティ、言語政策、地方の経済的不均衡など)は完全には解消されず、1974年のユーゴスラビア新憲法では共和国レベルに一定の権限が与えられるなど、後年に部分的に反映された側面もある。また、1980年代後半から1990年代初頭の民族主義の高揚、そしてクロアチア独立運動の文脈で、マスポークの記憶は再評価され、当時の弾圧が批判されるようになった。

評価の相違

マスポークは評価が分かれる歴史的出来事である。クロアチア側の一部や後年の支持者は、言語・文化の尊重や地域の権利回復を求めた正当な改革運動と見る。一方で、ユーゴスラビア中央や他の民族グループの視点からは、連邦の安定を脅かす民族主義・分離主義的な動きとして危険視された。歴史学や政治学の分野では、この運動がその後のユーゴスラビア解体に至る長い過程の一要因となったとする見方が一般的である。

マスポークは1971年の短期間で表面化し弾圧されたが、クロアチア社会における言語・文化・自治を巡る問題を長期にわたって浮き彫りにした出来事として、現代の歴史認識や政治的議論に大きな影響を与え続けている。