エドワード・ティーチEdward Teach, 約1680年 - 1718年11月22日)は海賊で、「海賊黒ひげ」と呼ばれていた。出生地や本名については不確かで、ブリストル(イングランド)出身とする説や、姓の綴りがTeachのほかにThatch、Thachなどの変形だったのではないかとする説がある。1710年代後半にかけてカリブ海や北アメリカ沿岸で活動し、当時の大西洋世界で最も有名な海賊の一人となった。

海賊としての活動

黒ひげは1716年頃から1718年までの短期間に急速に名を上げた。多くの史料は彼が私掠船(国によって認められた私兵)出身で、スペイン継承戦争(クイーン・アン戦争)後に職を失った者たちと同様に海賊へ転じたと推測している。彼はカリブ海や北米植民地沿岸の商船や巡航船を襲い、略奪や身代金徴収を行った。

彼の旗艦船は捕らえられたフランスの奴隷船ラ・コンコルド号で、黒ひげはクイーン・アンのリベンジと名づけた。この船は改装されて40門近い大砲を備え、当時としては強力な戦力となった。しかし1718年春、ノースカロライナ沿岸の浅瀬で修理中に座礁し、大半の装備と船を放棄せざるを得なくなった。その後も黒ひげは小型の艦を使って活動を続けた。

チャールストン包囲と赦免、最期

1718年にはサウスカロライナ州チャールストン港で商船を拿捕し、身代金を要求するなど公然とした略奪を行った。これを受けて英植民地当局は対応を強化し、南部の総督は海賊の赦免を約束する勧告を出した時期があり、黒ひげの一部の部下は赦免を受けて海賊行為をやめたともされる。しかし黒ひげは再び海に戻り、1718年11月22日、ノースカロライナのオクラコーク湾付近(オクラコーク島沖)で、イギリス海軍の指揮官ロバート・メイナード(Lieut. Robert Maynard)率いる部隊と交戦し、討ち取られた。戦闘後、彼の首は切り落とされ、捕獲した船の船首にさらされたという記録が残っている。

風貌と戦闘スタイル

黒ひげは威圧的な外見で知られており、しばしば大きな羽飾りのある三角帽をかぶり、多数の、ナイフ、ピストルを帯びて戦ったと伝えられる。伝説的に語られるのは、彼が髭や髪に火のついたロープ(スロー・マッチ)を編み込み、戦いの際に煙と火花で恐ろしい姿を演出したというものだ。これは敵を威嚇するための演出と考えられ、当時の銃器の点火方式(ゆっくり燃えるマッチを用いるマッチロック)に着想を得たともされる。やがて火花で点火する方式が普及し、火打石が使われるようになり、これらはフリントロックガンと呼ばれるようになった。

家族・交際関係と資料

黒ひげが正式に何人の妻や愛人を持っていたかは不明だ。初期の海賊伝記の一つであるA General History of the Pyrates(1724年、筆者名は「キャプテン・チャールズ・ジョンソン」とされるが偽名の可能性あり)には、黒ひげが14人の妻を持っていたと記されている。しかしこの種の記述は誇張や噂を含むことが多く、正式な婚姻記録で確認できるものはほとんどない。総じて、黒ひげに関する多くの逸話は同時代の報告や後世の物語が混ざり合って伝わっており、史実と伝説の境界が曖昧である。

遺産と評価

黒ひげは死後も海賊像の代表例として文学や映画、観光資源などで繰り返し取り上げられ、海賊像の多くの要素(恐ろしい風貌、豪胆な略奪、海賊の独立精神)は黒ひげ像によって象徴化された。歴史家は彼を、1710年代の海上犯罪と海洋帝国の拡大という文脈で理解しようとしており、個人の残虐性だけでなく、当時の経済・社会構造が海賊行為を生み出した点にも注目している。