イラン・イラク戦争(1980–1988)とは|原因・経過・影響をわかりやすく解説
イラン・イラク戦争は、1980年9月から1988年8月まで続いた、イラクとイランの間の全面戦争です。当初は主に両国間の国境紛争と政治的対立から始まりましたが、次第に長期の消耗戦となり、中東と世界の政治に大きな影響を与えました。戦争は1990年のイラクによるクウェートへの侵攻までの地域情勢を形作る重要な出来事であり、その後の「ペルシャ湾岸戦争(湾岸戦争)」と区別される歴史的背景ともなりました。
原因と背景
戦争の主な原因は複合的です。1979年のイラン革命によってホメイニ派のイスラム共和国が成立し、イランの国内外政策が急変したことが大きな要因でした。革命政権は反帝国主義・反西側の姿勢を明確にし、周辺の親政権勢力に不安をもたらしました。これに加え、長年続いてきた国境問題(特にシャットルアラブ/アルヴァンド川を巡る領有権争い)や、サダム・フセイン政権がイランの混乱に乗じて領土的利益や地域的優位を拡大しようとしたことが、1980年9月22日のイラク軍による侵攻につながりました(開戦直後にイラク軍はイラン南西部のクゼスタンなどを占領した)。
戦闘の経過(概観)
戦争は当初の機動戦から、次第に塹壕戦・消耗戦へと移行しました。双方ともに人的損耗が大きく、前線は固まり長期間の膠着状態が続きました。1980年代前半から中盤にかけては陸戦に加え、海上・空中攻撃、そして経済インフラを狙った攻撃が行われました。ペルシャ湾では「タンカー戦争」と呼ばれる海上衝突が発生し、両国の石油輸送や第三国船舶が攻撃され、国際的な海上航行の安全が脅かされました。
戦術・兵器と人道問題
- 塹壕戦と消耗戦:長期にわたる前線の膠着により、塹壕・砲撃・人的突撃が繰り返され、多くの死傷者が出ました。
- 化学兵器の使用:イラン・イラク戦争は化学兵器による攻撃が行われたことで国際的に注目されました。特にイラク側が化学兵器を使用した事例(民間人やクルド人への攻撃を含む)は重大な人道問題となり、後年の国際的批判と裁判の対象になりました。
- 民間人への影響:都市やインフラが攻撃され、多数の民間人犠牲者、難民、医療・生活インフラの破壊が生じました。
国際的関与
冷戦下という国際情勢の中で、アメリカとソ連の関与は無視できません。両大国や欧米諸国は戦略的利益や地域の安定を考慮して様々な形で関与しました。表面的には中立を装いつつも、両国は局面に応じて武器供与や情報支援を行ったとされます。1980年代中頃以降、イラクは多くの軍事援助を受け、米国も間接的な支持を行ったとされる事例が多数あります。さらに、各国の武器輸出や経済支援は戦争の長期化に影響しました。
人的・物的被害
犠牲者数の推定は資料により幅がありますが、兵士・民間人あわせて数十万から最大で数百万規模の死傷者・負傷者が出たと推定されます(正確な統計は不確定)。多くの都市や産業インフラが被害を受け、両国ともに巨額の戦費負担と経済損失を被りました。戦争の結果、数百万の避難民や負傷者が発生し、医療・復興負担が長期化しました。
終結とその後
国連安全保障理事会はたびたび停戦要求を出し、最終的には1987年に採択された決議などを経て、1988年8月20日に実質的な停戦が成立しました(以後軍事行動は縮小)。その後も捕虜交換や賠償交渉が続き、最後の捕虜交換が2003年に行われるまで両国間の後処理は長引きました。戦争は領土の大きな変更をもたらさず、事実上「引き分け」的に終了しましたが、地域情勢には長期的な影響を残しました。
地域・国際への影響
- 中東の勢力均衡の変化:両国の軍事・経済力が疲弊し、地域のパワーバランスに影響しました。
- イラクの財政悪化:戦費負担と対外債務の増加は、後の1990年のクウェート侵攻に至る一因とされます。
- 化学兵器問題の国際的注目:化学兵器使用が国際的非難を浴び、国際法・人道問題の議論を促進しました。
- 海上安全保障と世界経済:ペルシャ湾の不安定化は世界の石油供給に影響をおよぼし、国際的な対応(米国や多国籍艦隊の活動など)を招きました。
評価と教訓
イラン・イラク戦争は「勝者のない戦争」として語られます。両国ともに甚大な人的・経済的損失を被り、地域の安定が損なわれた点は重要な教訓です。国際社会の武器輸出や地政学的な思惑が地域紛争を長期化させること、化学兵器など大量破壊兵器の使用が深刻な人道的影響をもたらすことが改めて示されました。
この戦争の歴史を振り返ることは、現代の中東情勢や国際安全保障の理解にとって不可欠です。過去の経緯を学ぶことで、同様の悲劇を繰り返さないための国際的・地域的な努力の重要性が強調されます。
関連ページ
- ペルシャ湾
- 湾岸戦争
質問と回答
Q:イラン・イラク戦争とは何ですか?
A: イラン・イラク戦争は、1980年9月から1988年8月まで続いたイラクとイランの軍隊による戦争です。
Q:戦争はいつ始まったのですか?
A: 戦争は、長い間の国境紛争を経て、イランがサダム・フセイン政権の打倒を要求した後、イラクが1980年9月22日にイランに侵攻したときに始まりました。
Q:この紛争でどれくらいの死傷者が出たのでしょうか?
A:約100万人の兵士が死亡し、同数の民間人が死亡しました。
Q:紛争中、双方はどのような手段をとったのですか?
A:双方とも封鎖を行い、他国はそれに反対しました。
Q:国際勢力はどのようにこの紛争に関与したのですか?
A: 冷戦時代にさかのぼり、米ソの役割は極めて重要であった。1953年、アメリカはイランの首相であったモハンマド・モサデグに対するクーデターを奨励しました。国王であるモハンマド・レザ・パフラヴィーは、軍部と政府を支援し、政権に返り咲いた。アメリカは、国王の政府に多くの武器を売りつけた。一方、アラブ社会主義バアス党の革命家たちは、イラクの国王を倒し、ソ連の援助を受けて軍隊を増強した。アラブ連合共和国をはじめ、彼らはイランの少数アラブ人を含む全アラブ人を一つの国家にまとめようとした。戦争が始まると(特に1983年から1988年の間)、アメリカは主に革命家ホメイニを封じ込めるためにイラクに武器を売りました。
Q: この紛争に解決策や終結の日はあったのでしょうか?
A: 国連安全保障理事会が何度も戦闘の終結を求めたにもかかわらず、両国は1988年8月20日まで戦いました。