ペトラ・カリン・ケリー(Petra Karin Kelly、1947年11月23日 - 1992年10月1日)は、ドイツの政治家、平和活動家であり、ドイツ緑の党の創設者の一人である。環境保護、人権、非暴力を結びつけた先駆的な政治家として国際的に知られ、欧州における「緑の政治」を主流化した象徴的存在であった。
幼少期と教育
バイエルン州ギュンツブルクに生まれ、母はのちにアメリカ軍の将校と再婚した。家庭の事情により1959年に家族でアメリカ合衆国へ移住し、ドイツとアメリカの両文化の中で育つ。高校・大学時代から公民権運動や非暴力思想に強く関心を持ち、1966年から1970年までワシントンD.C.で政治学を学んだ。1968年の米大統領選ではロバート・F・ケネディの選挙運動に参加し、マーティン・ルーサー・キング牧師を尊敬しており、反ベトナム戦争の抗議者でもあった。1970年にワシントンで学位を得て、1971年にアムステルダムで再試験を受けたのち西ドイツへ戻った。
欧州委員会と市民運動
1971年から1983年までブリュッセルの欧州委員会で勤務。社会・雇用政策分野に関わりながら、余暇の多くを市民運動に投じた。原子力発電や核兵器配備への反対、女性の権利、国際人権、反アパルトヘイトなど幅広いテーマで連帯を呼びかけ、欧州各地の草の根ネットワークを結び付けた。のちの政治活動の核となる「非暴力」「人権尊重」「環境保護」を統合した姿勢はこの時期に確立された。
緑の党の創設と理念
1979年ごろから西ドイツ各地の市民運動を糾合し、1980年に結党へ至る過程で主導的役割を果たした。ドイツ緑の党は世界初の「緑の党」ではないものの、国政レベルで大きな影響力を持った先駆的環境政党として知られる。ケリーは党の基本理念として掲げられた「四本柱」を強く推進した。
- エコロジー(環境保護)―核エネルギーからの脱却、再生可能エネルギーと省エネの推進
- 社会的公正―弱者保護、平等な機会、連帯経済
- 草の根民主主義―参加型意思決定、透明性、権力の分権
- 非暴力―核軍縮、紛争の平和的解決、武力に依存しない安全保障
連邦議会での活動
1983年の総選挙で緑の党は初めて連邦議会に進出し、ケリーは党の顔として国内外で注目を集めた。1983年から1990年まで緑の党の連邦議会議員を務めた。西ドイツへの中距離核ミサイル配備(いわゆる二重決定)に一貫して反対し、東西対話と核軍縮を訴えたほか、福祉やジェンダー平等、動物保護、開発と人権の両立など横断的政策を提起。議会内外を結ぶ運動型の政治スタイルで、ドイツの政策議題に環境・平和・人権を定着させた。
著作と受賞
Fighting for Hope(希望のための闘い) などの著作で自身の政治哲学と非暴力の実践を発信し、多言語で講演活動も行った。1982年には活動が評価され、Right Livelihood Award(別名「もう一つのノーベル賞」)を受賞した。
死とその後の評価
1992年、ボンの自宅で44歳で死去。公式の捜査結果では、同居していたパートナーで政治家でもある退役将軍のゲルト・バスティアンに射殺された後、彼が自殺したと結論づけられている。突然の死は大きな衝撃を与えたが、ケリーの思想と実践は世界の緑の運動に生き続け、ドイツ緑の党がのちに連邦政権に参画するなど、環境・人権・平和を政治の中心に据える流れを後押しした。彼女の名を冠した賞や研究プログラムも設けられ、その遺産は次世代へ継承されている。

