ロベール2世は、通称「デーン人」(le Danois)として知られ、11世紀初頭のノルマンディーにおいて高位聖職と世俗領主権を兼ね備えたロロ朝の一員だった。10世紀末に、ノルマンディー公リシャール1世とその妻グノーラの子として生まれ、989年にルーアン大司教へと上り、のちに996年にはエヴルー伯となった。彼の経歴は、グレゴリウス改革以前の時代に教会と貴族が密接に結びついていたこと、そして聖職者の地位が王朝の影響力を強めるために用いられたことを示している。

幼少期とルーアンへの任命

公家の次男であったロベールは、まだ若いうちにノルマンディーの重要な司教座であるルーアンに据えられた。同時代の年代記作者たちは、この任命が聖職者の一部から反発を受けたと記している。その反対の背景には、両親の私的な事情があった。父リシャール公は正式な結婚以前からグノーラを伴侶としており、ロベールの昇進が教会に受け入れられることは、のちにその結びつきが正当化されたこととも関わっていた。この出来事は、10世紀末のノルマンディーにおける世俗権力と教会規範の折衝をよく表している。

世俗権力、結婚、家族

996年、ロベールはエヴルー伯領を与えられ、ノルマンディーの戦略的要地を公爵家の親族が直接支配する形になった。後世の中世的基準から見れば異例だが、ロベールは結婚し、子どもももうけた。史料では妻はHerleveとされ、地元の土地保有層の出身であった可能性がある。息子には、後にエヴルー伯を継いだリシャールと、ガセーのラウールがいた。聖職者の結婚は後代の改革者にとって大きな問題となるが、ロベールの時代には、北ヨーロッパの一部では結婚した聖職者や、家庭生活を送る聖職者は珍しくなかった。近代の歴史家たちは、ロベールの行動や職務が、精神的というより世俗的であったことが多いと指摘している。

後援、建築、文化的影響

ロベールは建築と学芸の積極的な後援者だった。1020年代末ごろ、ルーアン大聖堂の増改築に着手し、司教座の物質的・典礼的な重要性を高めた。考古学的証拠と文書史料は、彼が郊外の居館グラヴァンションにも投資し、要塞を公的な居館へと作り替えたことを示している。さらに彼は文学者や聖職者を集め、ノルマン人の歴史を公爵家の一員に献呈したデュドー・ド・サン=カンタンや、ルーアンの風刺詩人ガルニエらを引き寄せた。こうした結びつきは、ロベールが政治的存在であると同時に文化的存在でもあったことを示している。

リシャール1世との対立と晩年の政治的役割

1027年に甥のロベール1世(通称「壮麗公」)が公爵権力を継ぐと、叔父と甥のあいだに、史料では十分に説明されない理由による争いが生じた。この対立により、大司教ロベールはルーアンを離れてエヴルーへ退き、そこで包囲を受けたのち、フランス王家の宮廷へ逃れた。そこで彼は甥に対して破門という教会制裁を用いた。これは中世の政治手段として非常に強力で、しばしば交渉による妥協を強いた。やがて和解が成立し、ロベールは公爵宮廷に戻って上級助言者となった。1035年にリシャール1世が死去し、幼い息子(後の征服王ウィリアム)が継承者として残されると、大司教ロベールはノルマンディーを安定させる主要有力者の一人として働き、1037年の死までその役割を果たした。

遺産と歴史的意義

ロベール2世の生涯は、初期中世ノルマンディーにおける聖職権威と世俗権威の境界が曖昧であったことを示す。大司教であり伯でもあった彼は、霊的制裁と領域支配の双方を行使し、教会建築を形作り、学問を後援した。公爵政治への介入、とりわけ破門の使用と、未成年統治期における権力調整者としての後年の役割は、ノルマンディーの統治と継承に直接の影響を及ぼした。近代の研究者は、改革運動が司教に求める義務や振る舞いを再定義する以前の時代における、ノルマン貴族的な聖職者主義の重要な、そしてとりわけ世俗志向の強い代表として彼を位置づけている。

  • 別名: Robert le Danois
  • 主な役職: ルーアン大司教(989年から)、エヴルー伯(996年から)
  • 注目すべき行為: 大聖堂建設、著述家の後援、政治における破門の使用
  • 没年: 1037年