ロマン・シュケヴィチ(タラス・チュプリンカ)— UPA将軍・ウクライナ民族主義指導者
ロマン・シュケヴィチ(タラス・チュプリンカ)— UPA将軍としての生涯、ウクライナ民族主義と抵抗運動、政治的役割と遺産を詳述。
ローマ=タラス・ヨシポヴィッチ・シュケヴィチ(ウクライナ語。Роман Йосипович Шухевич、タラス・チュプリンカのペンネームでも知られる。1907年6月30日 - 1950年3月5日)は、ウクライナの政治家・軍事指導者で、ウクライナ反乱軍(UPA)の将軍(司令官)として知られる人物である。
経歴の概略
- 生年・出身:1907年生。ガリツィア地方(当時オーストリア=ハンガリー帝国領)で育った。
- 政治的立場:ウクライナ民族主義運動に深く関与し、組織としては主にOrganization of Ukrainian Nationalists(OUN、特にバンデラ派=OUN-B)と結びついて活動した。
- 軍事経歴:1941年には「ナハティガル(Nachtigall)」大隊の指揮に関与した時期があり、戦時中はさまざまな部隊編成と協力・対立関係の中で活動した。その後、1943年からはウクライナ反乱軍(UPA)の最高指揮官として抗ソ・抗占領の武装闘争を指導した。
- 政治的地位:1943年以降、ウクライナ最高解放評議会(UHVR)の事務総長(書記)を務め、UPAの軍事行動と政治組織の連携にあたった。
第二次世界大戦中とその直後
シュケヴィチは第二次世界大戦期において、ドイツ占領下やソ連との戦いといった複雑な情勢の中で行動した。ナハティガル大隊を含む一時的な協力関係や、独立ウクライナの建設をめざす武装闘争の指導を通じて、彼は西ウクライナ地域で重要な影響力を持った。
戦時・戦後を通じてシュケヴィチ率いるUPAは、ソ連当局と継続的に衝突しながら抵抗活動を続けた。1940年代後半から1950年代初頭にかけて、ソ連の内務機関(治安機関)による掃討作戦が強化され、ウクライナ国内での武装闘争は次第に弱体化していった。
戦時中の行為と論争
シュケヴィチとUPAの活動は、ウクライナ国内外で強い賛否を呼ぶ。支持者は彼を「ソ連による弾圧に抵抗した独立運動の指導者」として賞賛する一方、批判者や多くの歴史研究は、ナチス・ドイツとの一時的な関係や一部地域での民族浄化的な行為(特に1943–44年のヴォルィーニャ(ボルィーニ)と東ガリツィアにおけるポーランド民間人に対する暴力)への関与を問題視している。これらの出来事については、国際的にも歴史的にも詳細な調査と激しい論争が続いており、評価は立場や資料解釈によって大きく分かれる。
最期とその後の評価
シュケヴィチは1950年3月5日、ソ連の治安機関による包囲・攻撃の中で死亡した。以後、彼の刑事的・政治的評価は冷戦後の時代を含めて変化を続け、ウクライナ国内でも論争の対象となっている。
2007年、ヴィクトル・ユシチェンコ大統領はシュケヴィチに対して「ウクライナの英雄」の称号を授与したが、この授与は国内外で賛否両論を呼び、法的・政治的な議論の対象となった。記念碑や通り名、教育・記憶の場としての取り扱いなどをめぐり、現在も歴史認識の対立が続いている。
遺産と現代の視点
シュケヴィチはウクライナ民族主義の重要人物の一人であり、独立志向の象徴としての側面と、戦時中の暴力への関与という暗い側面を併せ持つ複雑な歴史的存在である。現代の研究や公的議論は、一次資料や証言の精査を通じて当時の軍事的・政治的文脈を明らかにしようとする一方、被害者の記憶や人権の観点からの検証も続いている。
参考・要点
- 1907年生、1950年没。ウクライナ民族主義指導者、UPA将軍。
- ナハティガル大隊指揮(1941–42年)などを経て、UPAの最高指揮官、UHVRの要職を務めた。
- 戦後もソ連に対する武装闘争を指導。1950年に治安機関の包囲で死亡。
- 評価は二分されており、英雄視する立場と戦時中の行為を批判する立場が存在する。

ウクライナ・クラコベツのシュケヴィチ記念碑、2016年
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