1269年の出来事:ヨーロッパ・アフリカ・アジアの主要事件・誕生・死去まとめ
コンテンツ
- 1 イベント
- 1.1 ヨーロッパ
- 1.2 アフリカ
- 1.3 アジア
- 2 誕生(注:記録は不完全)
- 3 死去(注:記録は不完全)
イベント
ヨーロッパ
- 教皇庁の空位(教皇空位期) — 1268年に教皇クレメンス4世が没した後、ローマ教皇選挙は長期にわたり決着せず、1269年も事実上の空位状態が続いていました。教皇不在は教会と世俗権力の関係、国際外交に影響を与えました。
- 封建社会と王権の動き — 多くの地域で王権と貴族、都市の間の勢力均衡が続いていました。特にイングランドやフランス、イベリア半島では政治的・軍事的な均衡が変動しており、法制度や統治機構の整備が進められていました。
- イベリア半島(レコンキスタ) — キリスト教王国(カスティーリャやアラゴン等)はイスラーム勢力からの領土回復を続け、文化的・学術的交流も活発でした。カスティーリャ王アルフォンソ10世(通称「賢王」)は文化・法制整備に力を入れており、学術的活動が盛んでした。
アフリカ
- マムルーク朝の東地中海支配 — マムルーク朝(エジプト)は東地中海における勢力を確立し、十字軍国家に対する圧力をかけ続けていました。バイブリース(バイバルス)らの指導で、十字軍拠点の掃討や沿岸都市の確保が進められました。
- サハラ貿易圏と西アフリカ王国 — マリ帝国や他の西アフリカ諸王国はサハラ交易を通じて塩・金などの交易で富を築いており、イスラム世界との交流も続いていました(ただし細部の年次記録は限られます)。
アジア
- モンゴル帝国の拡大と中国支配の進展 — 1260年代はフビライ・カアン(クビライ)の時代であり、モンゴル勢力は南宋への圧力を強める一方、支配体制の整備や各地での統治制度導入が進みました。これらの動きは後の元朝成立(1271年)へつながります。
- 東アジアと周辺国への影響 — モンゴルによる外交・軍事的圧力は朝鮮半島や日本、東南アジアにも波及しており、1270年代の更なる軍事行動へとつながる伏線が作られていました。
- 地域的な政治・文化の成熟 — インド亜大陸や東南アジアでは地域王朝が文化・宗教を基盤に統治を固めており、交易路の発展や宗教交流が続いていました。
誕生(注:記録は不完全)
13世紀の出生記録は多くの地域で不完全であり、年次がはっきりしない人物も多く存在します。1269年生まれとする資料がある人物もありますが、出典や年代のずれがある場合があります。詳細は各人物の専門資料を参照してください。
死去(注:記録は不完全)
同様に死去に関する正確な統計や一覧は残っていないことが多いです。なお、直近では1268年に教皇クレメンス4世が亡くなっており、その影響で1269年は教皇庁の空位が続いていました。
補注・参考
- 中世の年次出来事は地域ごとに記録の偏りがあり、同じ出来事でも年代に差異が生じることがあります。
- このページは1269年の概観を示すもので、個別の出来事や人物について詳しく知りたい場合は専門史料や各国・地域ごとの年表を参照してください。
イベント情報
ヨーロッパ
- 6月19日 - フランス王ルイ9世は、公共の場で識別用の黄色いバッジをつけていないユダヤ人を発見した場合、銀10リーヴルの罰金を科すことを命じます。
- ペレラン・ド・マリクールは、まず磁極について説明し、孤立した磁極が存在しないことを指摘した。
- ボヘミア王オタカル2世は、カリンシア地方とカルニオラ地方の一部を相続し、神聖ローマ帝国で最も強力な王子となった。
- ジョン・コミンによってスコットランドのブレア城の建設が始まる。
アフリカ
- かつて北アフリカの大部分とアル・アンダルス(ムーア人のスペイン)を支配していたカリフのアルモハド王朝(一般には認められていない)は、イドリス2世が王朝の最後の所有地であるマラケシュで殺害されたことにより消滅した。
- ベルベル人のマリニッドが、マラケシュで敗れたアルモハド朝に代わってモロッコの征服を完了する。
アジア
誕生日
- フィリップ・オブ・アルトワ
- 黄公望、中国の画家(死去 1354)
- Vedantadesika(ヒンドゥー教の詩人・哲学者
訃報
- ジョン・デ・バリオール、スコットランド王ジョン・バリオールの父
- ガリシア王スバルン