カエドワラ(Cædwalla、約659–689)— ウェセックス王の生涯・治世と七王国形成への影響

カエドワラ(約659–689)の波乱の生涯と戦略的治世がウェセックスを第三勢力へ導き、七王国形成に与えた劇的な影響を詳述。

著者: Leandro Alegsa

カエドワラ(Cædwalla、約659–689)は、685年頃から688年に退位するまでのウェセックス王である。彼の名前はブリトン系の名Cadwallonに由来するとされる。彼は強力な王であり有能な軍人として知られ、若年期に国外へ追われた後に復権して勢力を拡大した。ウェセックス王国がノーザンブリア、メルキアに次ぐ第三の王国へと位置づけられ、後にいわゆる七王国(ヘプターキー)の一角をなす基盤を築いたのは、カエドワラらの活動が大きく寄与している。カエドワラは生来は異教徒の王であったが、晩年にキリスト教との深い関わりを持ち、教会へ土地を寄進するなど宗教面でも重要な足跡を残した。

生い立ちと即位まで

出自や幼少期については資料が乏しく、詳しい系譜は不確かである。若いころに国内での抗争に敗れて国外に出たとされ、その後数年間を経てウェセックスに戻り、有力な戦士として頭角を現した。記録では685年頃に実効的な君主として勢力を確立し、688年に退位するまで短いながらも激しい治世を送った。

治世と軍事遠征

  • カエドワラは積極的な軍事行動を行い、南部の小王国や島嶼部に対する遠征を繰り返した。特にアイランド・オブ・ワイト(ワイト島)やサセックス方面への攻撃で知られる。
  • これらの遠征は領土の確保・支配層の転換をもたらし、ウェセックスの勢力圏を南海岸沿いに拡大した。支配が及んだ地域では領主交代や臣従関係の再構築が行われた。
  • 戦争は時に残酷であり、被征服側の支配者が滅ぼされることもあったが、その一方で征服地にウェセックス系の支配体制を導入することで長期的な統治基盤を作った。

宗教的態度とローマ巡礼

カエドワラは元々異教の信仰を持っていたと伝えられる。だが、治世中には教会への土地寄進や聖職者との関係を持ち、特に著名な教会人との関係が記録に残る。史料によれば、彼は晩年に王位を退き、ローマへ巡礼して洗礼を受けたとされる。伝承ではローマで教皇セルギウス1世に洗礼を受け、洗礼名を授かったとも伝えられ、その直後に病に倒れて689年に没したとされる(一次史料としてはベーダや『アングロ=サクソン年代記』などが主要な情報源)。

教会との関係

征服後の領地一部は教会へ寄進されたと伝えられ、特にアイランド・オブ・ワイトや周辺の土地に関する寄進記録が史料に残る。これにより宣教活動や教会組織の再編が進められ、当該地域のキリスト教化に寄与した面がある。カエドワラの行動は、単なる武力征服にとどまらず、征服地の宗教的・行政的再編を伴っていた点で後続の王たちへの影響が大きい。

評価と歴史的意義

カエドワラの治世は短期間であったが、ウェセックスの勢力を拡大し、南部諸国に対する影響力を強めたことは確かである。彼の軍事的成功や征服地の統合は、後にイネ(Ine)らがより強固な王国を築くための土台となった。宗教面では、異教からキリスト教への転換という個人的な劇的変化が伝承され、ベーダの記述などを通じて中世以降に語られてきた。

史料と不確実性

カエドワラに関する記述は主に中世の年代記や教会史(例:ベーダ『教会史』、『アングロ=サクソン年代記』)に依拠しているため、細部や年代については異説・不確実な点が残る。現代の歴史学はこれら一次史料を批判的に読解し、軍事行動の規模や君主の動機、支配構造の実際などについて慎重に議論している。

結論:カエドワラは、短い治世ながら軍事力と政治的手腕でウェセックスの地位を高め、南部イングランドにおける権力構造の変化に重要な役割を果たした。晩年の改宗とローマ巡礼は彼の人物像に宗教的な側面を付加し、後世の史料記述で強調される要素となっている。

初期の経歴

659年頃、カエドワラ(Caedwalla)誕生。Cenberht(Coenbryht)の息子で、Mulの兄である。二人はゲヴィサエの王家の出身。カエドワラはセルディックの子孫である。ウェセックスの下級王であった父は、シードワラが2歳くらいの時、661年に殺された。一家はウィールドの大森林に避難した。シードワラはセンウォルの死後、ウェセックスの領有権を主張しようとした一人であったらしい。しかし、彼は680年にセントウィンによってウェセックスを追放された。その間、彼は自分の周りに戦士の一団を集めていた。685年、シードワラは「王国のために努力し始めた」(あるいは王になることを望んだ)。彼はサセックスを繰り返し攻撃し、エセルワルス王を殺害した。サセックスのエアルドマン2人がシードワラをその王国から追い出した。土地を失ったシードワラは、再びウェセックスに関心を向けるようになった。この年、セントウィンは修道院に引きこもり、ウェセックスの王位を退いた。

ウェセックス王

686年、シードワラは自らを王と宣言することができるようになった。ウェセックスに残っていた下級貴族は彼に反対せず、その領土を維持した。シードワラがウェセックスに君臨していた3年間、彼は常に戦争をしていた。686年には弟のミュルとともにケント州を荒らし回った。ケント州を支配下に置いた後、彼は弟のミュルをケント州の王として任じた。その夏、彼はサセックスを攻撃し、ベルフトゥン王を殺害した。687年、Kentの人々はMulに対して蜂起し、彼は12人の仲間とともに火刑に処された。彼らはすぐに自分たちの王統を王座に回復させた。カエドワラは二度目の侵略を行い、自らケント州を支配した。シードワラは次にワイト島を侵略した。アルワルド王は殺された。シードワラは、アルワルドの兄弟であるワイトの2人の若いアテリングにキリスト教に改宗することを許した後、彼らを処刑した。その後、彼は住民をすべて殺害し、ウェセックスからの入植者と入れ替えた。彼はまだ異教徒であったが、ワイト島にあるいくつかの大きな領地を司教ウィルフリッドに与えた。ワイト島での戦いの最中、シードワラは重傷を負った。その傷は彼にとっては致命的なものだった。しかし、彼はイングランド南東部の大部分を征服することに成功した。688年、彼はウェセックス王国の王位を退いた。689年の復活祭の日にローマに行き、教皇セルギウスから洗礼を受けた。その約10日後の4月20日に死去し、ローマに埋葬された。彼は、彼に続く西サクソン王がイングランド南東部全域を支配する前例となった。

カエドワラは最後まで異教徒であり続けた。司教ウィルフリッドの友人で、教会の擁護者を自称することもあった。ケント州フーの修道院長エクボルドに修道院のための土地を与えた。サリー州では、ファーナムの修道院のための土地を許可し、彼の権威を証明した。ワイト島からすべてのジュート人を排除しようとしたのは、異教徒に対するキリスト教の戦争であると考えたからである。ローマへの巡礼の旅でイングランドを発つ際、カレーに立ち寄り、そこに教会を建てるために寄付をした。ローマに向かう前にロンゴバルド人の宮廷でも同じことをした。カエドワラの後を継いだのはイネである。



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