ジョン・ショートランド

若年期と最初の航海

ショートランドは1781年にイギリス海軍の中衛として入隊しました。以後、ケベック西インド諸島での従軍経験を積みました。彼の父、大尉ジョン・ショートランド(1739–1803)は、1788年にオーストラリアへ最初の囚人を送った第一艦隊の準備に多く携わった海軍関係者であり、息子ジョンとトーマス・ジョージ・ショートランド(1771–1827)が父とともに第一艦隊で航海するよう取り計らいました。

オーストラリアでの活動(1788–1800)

ショートランドはHMSシリウス号でジョン・ハンター船長とともに航海士を務め、1790年にはノーフォーク島でのシリウス号難破にも遭遇しました。1792年に一度オーストラリアを離れた後、同年ハンターと再び渡豪します。ハンターはすでにニュー・サウス・ウェールズ州知事に就任しており、ショートランドはリライアンス号の中尉として乗艦しました。この時期、船には後に著名になるマシュー・フリンダースやジョージ・バスも乗っていました。

1797年、ショートランドは逃亡した囚人を追跡する任務中にハンター川を発見し、これにハンターの名を冠しました。彼は現在のニューカッスルの市域を探検し、港の最初の海図を作成しています。これらの貢献により、彼はリバティ・プレインズとバンクスタウンに土地の授与を受け、シドニーの刑事裁判所の委員も務めました。海軍生活への未練から、1800年にリライアンス号でイギリスへ帰国しました。

その後の海軍勤務と最期

イギリス帰国後もショートランドの海軍での活動は続き、エジプト方面への遠征に参加し、ドルフィン号トロンプーズ号に乗艦しました。その後、ギニア方面へ航行し、艦長が亡くなった際にリス号の艦長に就任しました。1805年にはハリファックスで、捕獲した40門のフランスのフリゲートを改装したジュノ号の艦長となりました。

1809年、ショートランドは複数のフランス艦艇との交戦で勇敢に戦いましたが、結果的に失敗し、ジュノ号は破壊され、彼自身も重傷を負いました。これらの傷が元で彼はまもなく没し、フランス側は彼をグアドループ島のバッセ・テールに軍の栄誉をもって埋葬しました。

遺産と記念

ニューカッスル郊外のショートランド(地名)や、オーストラリア議会の選挙区であるディビジョン・オブ・ショートランドは、いずれも彼の名前にちなんで名付けられています。また、150周年を記念して発行された切手でも紹介されましたが、版画家の手違いにより切手には彼の父親が描かれてしまったという逸話が残ります。

評価

  • ショートランドのハンター川発見とニューカッスル港の測量は、同地域の航海と植民地発展に重要な貢献をしました。
  • シドニーでの行政的役割(土地授与や裁判所委員など)により、軍人であると同時に初期植民地社会の一員としての影響力も持っていました。
  • 後年の戦闘での最期は、海軍士官としての勇敢さと激しい軍事行動の一面を示しています。