第一艦隊とは、1787年5月13日にイギリスを出航した11隻の船に付けられた名前である。
は、ヨーロッパ人初の植民地となるニューサウスウェールズ州をスタートさせた。それは、何千人もの囚人をオーストラリアに送り込み、囚人入植地を作るという計画の始まりだった。船団はアーサー・フィリップ船長に率いられていた。この船旅は8ヶ月に及び、それまでアベル・タスマンとジェームズ・クックが2度ずつ使ったことのある海を横断する航路を利用した。
出航と目的
第一艦隊は1787年5月13日にイングランド南部の港を出発し、英国政府の命じた刑罰移送(Transportation)政策に基づいて、新たな流刑地と植民地をオーストラリア東岸に築く目的で航海した。目的は、犯罪者の収容先を確保してイギリス本国の監獄の過密状態を緩和するとともに、海外に港湾・軍事拠点を設けることにもあった。
艦隊の構成
艦隊は計11隻で構成され、囚人輸送船、物資船、そして海軍の護衛艦が含まれていた。主な船は次の通りである(代表的な構成):
- 囚人輸送船(例): Alexander、Charlotte、Friendship、Lady Penrhyn、Prince of Wales、Scarborough
- 物資補給船(例): Borrowdale、Fishburn、Golden Grove
- 海軍艦船(護衛): HMS Sirius、HMS Supply
乗員・乗客は囚人のほか、海軍士官、兵士(主に海兵隊)、船員、技術者、家族、自由民(植民に携わる人々)などを含み、総勢は約1,000人を超えていた。
航海の経路と停泊地
第一艦隊はカナリア諸島、後に南大西洋の補給港(リオデジャネイロなど)、アフリカ南端の喜望峰(ケープタウン)で補給と修理を行い、十分な食糧と水を確保してからインド洋を横断してオーストラリア東岸へ向かった。航海は約8か月間に及び、途中での病気や悪天候に対処しながら進んだ。
1788年1月にまず到達したのはボタン湾(Botany Bay)であるが、上陸・定住には適さないと判断されたため、船団は近隣のポート・ジャクソン(現在のシドニー湾)へ移動し、1788年1月26日にシドニー・コーブ(Sydney Cove)で入植が始まった。以降、この日付はオーストラリアの建国記念日(Australia Day)として記憶されている。
船上と到着時の状況
船上の生活は厳しく、狭い空間・衛生状態・限られた食糧が問題だった。しかし当時の船医や乗組員の努力により、長距離移送にしては死亡者数は一定程度抑えられた。到着後は食料不足、住居の確保、現地の地形・気候への適応など多くの困難に直面した。
先住民との接触と影響
入植は現地の先住民(当時この地域に暮らしていたエオラ族(Eora)など)と直接的な接触を生み、土地の奪取、資源の競合、さらには伝染病の流入などによって先住民社会に大きな影響を与えた。これらの影響はその後の世紀にわたる対立と社会変化につながる。
歴史的意義とその後
第一艦隊はオーストラリアにおけるヨーロッパ系植民地の始まりを象徴する出来事であり、以後数十年間にわたって罪人の移送(Transportation)は続いた。ニューサウスウェールズ植民地の成立は、地域の人口構成、政治・経済の変化、先住民の人口・文化への深刻な影響をもたらし、現代のオーストラリア史を考えるうえで重要な転換点となった。
第一艦隊についての記録や日誌、船内記録、当時の通信は、航海の実態や初期入植の状況を知るための貴重な一次資料となっている。

