トマス・ベケットとは:カンタベリー大司教、ヘンリー2世との対立で1170年暗殺・1173年列聖

トマス・ベケットとは?カンタベリー大司教としてヘンリー2世と激しく対立し、1170年暗殺・1173年列聖された生涯と背景を詳しく解説。

著者: Leandro Alegsa

トーマス・ベケットはイギリスの司祭であり、カンタベリー大司教であり、1170年にカンタベリー大聖堂で殺害された。人々は彼の名前をトーマス・アー・ベケット(Thomas à Becket)と思っていましたが、これは後世の誤称であり、現在では一般にトマス・ベケット(Thomas Becket)と呼ばれています。彼の生涯と殉教は、中世イングランドにおける教会と王権の関係を象徴する事件として広く知られています。

生い立ちと出世

ベケットはロンドンのチープサイドで生まれ、商人の家に育ちました。幼少期から学問に優れ、スポーツや狩猟も楽しむ活発な少年だったと伝えられます。16歳ごろにパリへ留学し、神学や法学を学びました。帰国後は教会・王室両方の要職を歴任し、政治的・教会的ネットワークを築きました。

1143年、ベケットは書記官として、後にカンタベリー大司教となるセオバルド(Theobald of Bec)のもとに仕え始めました。やがて王の信任を得て、ヘンリー2世の側近となり、王国の財政や政務を取り仕切る大法官(王室長官)も務めました。1162年に突然カンタベリー大司教に任命され、聖職者としての立場に立ったことが、後の対立の発端となります。

ヘンリー2世との対立

ベケットは当初ヘンリー2世の親友であり重要な相談相手でしたが、大司教に就任すると教会の利益を強く主張するようになりました。特に、聖職者に対する世俗的司法権の及び方や、教会の免罪特権をめぐって王と激しく対立しました。ベケットは大法官を辞任し、大司教として教会の自治と裁判権の拡大を図ったため、王政との摩擦が深まりました。

対立の中心となったのは、聖職者を世俗の裁判からどの程度守るかという問題でした。一連の論争は、1163年10月のウェストミンスターでの話し合いや、1164年1月30日のクラレンドンでの会議(クラレンドンの規定)に表れ、王は教会に対する王室政府の伝統的な権利の承認を求めました。ベケットはこれを拒み、両者の溝は埋まりませんでした。

亡命と帰国

1164年10月8日、ヘンリーはベケットをノーサンプトン城の大評議会に召喚し、疑惑に答えるよう求めました。評議会で不利な立場に立たされたベケットはイングランドを脱出し、ヨーロッパ大陸へ亡命しました。フランス国王ルイ7世はベケットの保護を申し出、ベケットは約2年間、ポンティニーのシトー会修道院で暮らしました。

しかしその後の外交と圧力により、ベケットは一時的にセンズへ移るなどを経て最終的にイングランドへの帰国を決意しました。帰国後も対立は続き、ベケットは王に協力したと見なす聖職者や支持者を破門し、教会の権利を守る姿勢を崩しませんでした。

暗殺とその直後

対立に苛立ったヘンリー2世が、公の場で「誰がこの厄介な司祭を私から追い払ってくれるだろうか」などと述べたと伝えられることが、事件の発端となりました(王の正確な言葉は史料により異なります)。この発言を受けて、忠実な騎士たちが行動を起こします。

1170年12月29日、王の忠臣とされた4人の騎士(一般にレジナルド・フィッツアース、ヒュー・ド・モーヴィル、ウィリアム・ド・トレイシー、リチャード・ル・ブレットンとされる)がカンタベリー大聖堂に押し入り、祈っていたベケットを襲撃して殺害しました。ベケットは大聖堂内で殉教し、その死は国内外で大きな衝撃と非難を呼びました。

暗殺後、ベケットの墓所には多数の巡礼が訪れ、墓所で多くの奇跡が報告されたと伝えられます。これによりローマ教皇アレクサンデル3世は1173年に彼を聖人として列聖しました。彼の殉教は教会の権威と独立を象徴する事件として広く記憶され、王権と教権の関係に大きな影響を与えました。なお、事件後の1174年、ヘンリー2世はカンタベリーで公開の悔悟を行ったと伝えられています。

遺産とその後

ベケットの祠堂は長くカンタベリーの重要な巡礼地となり、中世を通じて多くの信者が訪れました。ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』など文学作品にも巡礼の場として登場します。しかし16世紀、ヘンリー8世の命令で修道院制度の解体(修道院解散)とともに、ベケットの主要な祠堂は破壊されました。

トマス・ベケットの事件は、近代国家における教会と国家の関係、聖職者の法的地位、王権の限界についての議論に大きな示唆を与えました。また、史実としてだけでなく劇作や詩、絵画などで繰り返し取り上げられ、文化的にも長く影響を残しています。彼の記念日は12月29日(殉教日)として伝えられています。

カンタベリー大聖堂のトーマス・ベケットのステンドグラス窓Zoom
カンタベリー大聖堂のトーマス・ベケットのステンドグラス窓

質問と回答

Q: トーマス・ベケットとは誰ですか?


A:トーマス・ベケットは、1170年にカンタベリー大聖堂で殺害されたイギリスの司祭、カンタベリー大司教です。

Q: 彼はどこで生まれたのですか?


A: ロンドンのチープサイドで生まれました。

Q: カンタベリー大司教になる前は何をしていたのですか?


A: カンタベリー大司教になる前は、16歳でベックのテオバルトの家に事務員として入り、パリで勉強しました。

Q:ヘンリー2世とベケットの対立のきっかけは何だったのでしょうか?


A: ヘンリー2世とベケットの対立は、教会の権利をめぐる意見の相違から生じました。このため、2人の友情は終わり、ベケットは大法官を辞任しました。

Q: 1164年10月8日、ノーザンプトン城で何が起こったか?


A: 1164年10月8日、ヘンリー王はベケットを召喚し、ノーザンプトン城で開かれた大評議会に出席させ、王の権利に同意するよう公式に求めました。

Q: ベケットは有罪判決を受けた後、どこに逃げたのですか?


A: 罪状で有罪になった後、ベケットはヨーロッパから逃亡し、ルイ7世がポンティニーというシトー会の修道院に滞在して保護し、ヘンリーからの脅しでセンズに戻ることになりました。

Q:トマスはどのようにして聖人になったのですか?


A: トマスは1173年、教会の敵を破門し、アンリ2世にも破門すると脅したという報告を聞いた4人の騎士に殺され、その死後、聖人となったのです。


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