ウィリアム3世(1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、1689年2月13日からイングランド王、アイルランド王。1689年4月11日にスコットランド王となった。スコットランド王としてはウィリアム2世であった。1702年3月8日に亡くなるまで王であった。
ウィリアムは、オレンジ公ウィリアム・ヘンリー王子としてオランダで生まれました。母親はメアリー・スチュアートで、メアリーはイングランド王ジェームズ2世の妹にあたります。父ウィリアム2世はウィリアムの生誕前に没しており、生後間もなくオレンジ家の公位を継承しました。ウィリアムは1677年11月4日にジェームズ王の娘メアリー(自身のいとこ)と結婚し、以後オランダのオレンジ公としてだけでなく、イングランド王室と密接な関係を築きました。
当時のイングランドでは多数派のプロテスタントがカトリックに寛容なジェームズ2世の政策に反発しており、1688年の「栄光の革命」でジェームズ王は退位に追い込まれました。ウィリアムはオランダ軍を率いてイングランド(ブリクシャム)に上陸し、これが決定的となってジェームズの支持基盤は崩壊しました。ジェームズは最終的にフランスへ亡命し、武力によるイングランドへの侵攻が成功した最後の例として歴史に残ります。
英国議会はウィリアムとメアリーに王位を共同で提供し(一方が死去すると、もう一方が単独君主となる取り決め)、ウィリアム3世とメアリー2世とした。この転換は王権を議会主導の形に制限する方向を決定づけ、1689年の「権利の章典(Bill of Rights)」は国王の恣意的な統治権を制約するとともに、議会の優越を明文化しました。同年成立した「寛容法(Toleration Act)」は、プロテスタントの非国教派に限定して信教の自由を認めましたが、ローマ・カトリックや異教徒には適用されませんでした。
ウィリアムは1689年にスコットランドのエステート(議会)を召集し、審議を通じてジェームズがもはやスコットランド王でないと宣言されることを受け入れさせました。4月11日の戴冠式の前後に条約は成立し、ウィリアムとメアリーはスコットランド王冠を受け入れました。以後、ジェームズとその支持者(ジャコバイト)は50年以上にわたって王位回復を目指す反乱や陰謀を続けますが、ウィリアムの治世下でもこれらの動きは根強い脅威となりました(ジャコバイト)。
ウィリアムの最大の対外的敵はフランス王ルイ14世で、ルイはジェームズとその流亡政権を後押ししました。アイルランドでは多くのローマ・カトリックとジャコバイト勢力がフランスの支援を受け、1690年のボインの戦いではウィリアム自身が軍を率いて決定的な勝利を収め、ジェームズは再びフランスへ逃亡しました。翌年の和平協議や軍事行動の末、アイルランドでの主要な武力衝突は1691年のリメリック条約などで一応の終結を迎えました。
欧州大陸ではウィリアムが主導した反仏同盟(いわゆる大同盟)とフランスとの間で九年戦争(1688–1697, 別名: 対フランス戦争)が展開されました。海戦では英蘭連合が健闘し、1692年のラ・ホーグ海戦でフランス艦隊に大打撃を与えましたが、陸上戦では1692年にナムールが一時的にフランスに奪われ、1693年のランデン(Landen)の戦いではウィリアムが負傷するなど苦戦も経験しました。戦費を賄うため、1694年にイングランドでは国債制度の整備や銀行の創設(後のBank of England)など、財政の近代化が進められ、これが後の英蘭同盟の長期的軍事継続を支えました。
国内的には、ウィリアムの治世で議会中心の立憲政体が一層確立され、君主の権限は法と議会の制約下に置かれる慣例が強まりました。1696年にはジャコバイトによる暗殺計画が発覚し、ウィリアムは暗殺未遂を免れています。妻メアリーは1694年12月12日に天然痘で亡くなり、以後ウィリアムは単独で統治することになりましたが、2人の間に子は残らず、王位はやがて義理の妹にあたるアン女王に継承されました。
もう一つ重要な法的転換として、1701年にイングランドとアイルランドの王位継承をプロテスタントに限定する議会法(王位継承法(Act of Settlement))が可決されました。この法律はハノーヴァー朝(後のジョージ王朝)への道を開くものであり、スコットランドは当初この協定の一部ではありませんでした(後に1707年に2つの王国が議会で統合されるに至ります。)。
ウィリアム3世は1702年3月8日に没し、約13年間にわたるイングランド(およびスコットランド・アイルランド)での統治を終えました。彼の治世は王権の制約、議会政治の確立、ヨーロッパ大陸における対仏同盟の構築といった点で近代英国の基礎を築いたと評価されています。