メアリー2世(1662年4月30日 - 1694年12月28日)は、1689年の栄光の革命ののち、1689年から亡くなるまでイングランドスコットランドアイルランドの女王として君臨しいた。メアリーはプロテスタントであった。

共同統治と政治的役割

メアリーは父ジェームズ2世と7世(当時はヨーク公)を事実上退位させた栄光の革命の結果、夫のウィリアム3世と2世と共に王位に就いた。歴史上は二人の共同統治を「ウィリアムとメアリー」と呼ぶのが一般的である。共同統治の下で、1689年には議会が権利の章典(Bill of Rights)や宗教寛容を一部規定する法案を通し、王権の制限と議会の優位を確立する方向に進んだ。これらの改革は立憲君主制への転換に大きく寄与した。

日常的にはウィリアムが多くの政策決定を主導したが、ウィリアムが軍事行動やオランダ出張などのため国を離れる際には、メアリーが単独で統治を行い、閣議(枢密院)を主宰して王室の法案に署名するなど実務をこなした。特に1690年頃、ウィリアムがアイルランド遠征に向かった際はメアリーが国内の政治を取りまとめ、決定的な役割を果たしたとされる。メアリーは信仰深く、イングランド教会の最高統治者として教会の運営に積極的に関与した。

生い立ちと家族

メアリーは1662年4月30日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で生まれた。父はヨーク公ジェームズ、母は彼の最初の妻であるレディー・アン・ハイドで、彼らの長女であった。メアリーの叔父はチャールズ2世、母方の祖父はエドワード・ハイド、クラレンドン伯爵で、クラレンドンはチャールズ2世の主要な顧問として知られている。母は多数の子を産んだが成人まで生き残ったのはメアリーと妹のアンだけであった。

父であるヨーク公は1668年か1669年にカトリック教徒に改宗したが、メアリーとアンはチャールズ2世の命によりプロテスタントの教育を受けた。母は1671年に死去し、父は1673年に再して、モデナ出身のメアリー(マリア・ベアトリス・デステ)を迎えた。若い頃のメアリーはジェームズ家の宮廷生活の中で、ジェームズの鷹匠の娘フランシス・アプスリーに多くの手紙を書いたが、彼女はその関心に応えなかった(フランシス・アプスリーに関する記述)。

結婚とオランダでの生活

15歳のとき、メアリーは最初のいとこにあたるプロテスタントのウィリアム(オレンジ王子)と婚約した。ウィリアムはメアリー、ロイヤル王女とナッソーのウィリアム2世の息子である。チャールズ2世は当初、フランスとの同盟を重視してメアリーをフランス王太子のルイと結婚させることを望んだが、議会やプロテスタント派の圧力により結婚は承認され、メアリーとウィリアムは1677年11月4日にロンドンで結婚した。結婚式でメアリーが泣いていたと伝えられているのは有名なエピソードである(泣いていたとの記録)。

結婚後、メアリーはオランダに行き、ウィリアムの宮廷で暮らした。明るく社交的な性格でオランダ人にも好かれ、夫への愛情も深かったとされるが、結婚生活は必ずしも順調ではなかった。メアリーは数回の妊娠を経験したが、妊娠は流産や流産・死産に終わることが多く、子を残せないことを深く悲しんだ。夫ウィリアムは一時、メアリーの侍女の一人であるエリザベス・ヴィリエと長く浮気をしていたといわれるが、その後夫婦関係は改善され、共同で統治を行う時期もあった。

晩年と死後の影響

1694年12月28日、メアリーは天然痘(痘瘡)により亡くなった。彼女の死後、ウィリアムは単独の君主としてイングランド、スコットランド、アイルランドを統治した(ウィリアムは1702年に死去し、その後メアリーの妹アンが王位を継承した)。メアリーの短い在位期間は、王権の制約を明文化した法的措置の成立や、プロテスタント勢力の確立という点で重要であり、立憲政治への移行における象徴的人物と見なされている。

メアリーは信仰心が厚く、寛大で実務的な君主として評されることが多い。彼女は教会や慈善活動に関心を持ち、国内安定のために働いた。また、共同統治のあり方や、君主が議会といかに折り合いをつけるかという問題に関して、その在位は後世の英国王政史に重要な足跡を残した。

(注:本文中の人物名・出来事へのリンクは原文のまま保持しています。)