朝鮮戦争の転換点:1950年中国参戦と11月〜12月の主要戦闘解説
1950年11–12月、中国参戦で朝鮮戦争が転換した決定的戦闘と38度線への帰結を詳解。戦況・戦略・影響を時系列で分かりやすく解説。
朝鮮戦争における重要な戦闘である「朝鮮総督府の戦い」(1950年11月17日〜12月13日)。
米国を中心とする国連軍は、韓国を攻撃した後、北朝鮮を占領した。中国が国連に警告を発し、戦争に突入。中国は国際連合軍を攻撃し、撤退を余儀なくされた。その結果、膠着状態となり、朝鮮半島を38度線で分断する休戦協定が結ばれた。
訂正と全体の流れ(背景)
上の元文には事実関係の誤りや表現の不正確さが含まれています。まず、1950年の出来事を正しく整理すると次の流れになります。
- 1950年6月25日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が韓国(大韓民国)へ全面侵攻し、朝鮮戦争が始まりました。
- 国連軍(主に米軍)の介入、仁川上陸(9月)などで情勢は逆転し、国連軍は10月に北朝鮮領内まで進撃して平壌などを占領し、やがて鴨緑江(鴨緑江=鴨緑江=鴨緑江、注:鴨緑江は鴨緑江)に近づきました。
- この進軍を受けて中華人民共和国は国境・安全保障上の懸念を表明し、10月〜11月にかけて中国人民志願軍(PVA)を朝鮮半島に投入しました。これが本格的な中国の介入です。
1950年11月〜12月の主要戦闘
11月下旬から12月にかけて、中国軍の介入は戦局を一変させ、国連軍は北方から撤退を余儀なくされました。特に重要な戦闘は次の通りです。
- 長津湖の戦い(長津湖、Chosin Reservoir):1950年11月27日〜12月13日頃。米第1海兵師団やX軍団の部隊が中国人民志願軍と激しい戦闘を行い、極寒と補給困難の中で撤退・戦闘離脱を強いられました。戦術的には米軍は困難な状況を脱したものの、中国側も大きな損害を受け、戦闘の激しさと過酷さで知られます。
- 清川江(Ch'ongch'on River)の戦い:1950年11月下旬〜12月上旬。中国人民志願軍の攻勢により朝鮮人民軍(北朝鮮)と連携した大規模な反攻が行われ、国連軍(主に米軍・韓国軍)は北方から南方へ押し戻され、短期間で大きな戦線後退を強いられました。
(注)元の文章にある「朝鮮総督府の戦い」という名称は史実上の主要戦闘名としては存在せず、上記のような実際の戦闘名・日付を参照するのが正確です。
結果と影響
- 戦局の転換:中国の介入により国連軍の北進は止まり、戦線は南北に大きく押し戻されました。これによって戦争は短期決着から長期の消耗戦へと変わりました。
- 人的・物的被害:11月〜12月の攻防では両軍ともに大きな損害を受けました。特に長津湖では厳しい気候と補給難による損耗が甚大でした。中国側の動員規模・損耗も非常に大きく、戦後の評価でも高い人的コストが指摘されています。
- 外交的帰結:戦闘の結果、停戦交渉が長期化し、最終的に1953年7月27日に休戦協定が署名されました。休戦協定により現在の軍事境界線(DMZ)が設定され、実質的に朝鮮半島は38度線付近で分断された状態が続いています(ただし、休戦協定締結は1953年であり、1950年末の戦闘直後に即座に決まったわけではありません)。
なぜ中国は介入したのか(簡潔な解説)
- 国境安全保障の懸念:国連軍が鴨緑江(中朝国境)近くまで迫ったことは中国政府にとって安全保障上の重大事と受け止められました。
- 政治的・イデオロギー的要因:冷戦構造の中で共産圏の影響圏を守るという意図がありました。
- ソ連の支援:ソ連の軍事援助や政治的支援を受けつつ、独自判断で軍事介入を実行しました。
まとめ(要点)
- 1950年11月〜12月の中国介入とそれに伴う主要戦闘(長津湖の戦い、清川江の戦いなど)は朝鮮戦争の大きな転換点でした。
- これらの戦闘により国連軍は北方から撤退し、戦争は長期化。最終的な休戦は1953年に成立しました。
- 史実表記や戦闘名には正確さが求められるため、元文にあった名称・日付の誤りは訂正しました。
背景
北朝鮮が38度線を越えて韓国に侵攻し、韓国の大部分を占領。韓国軍は釜山まで退却。国連軍が介入し、仁川に上陸、ソウルを占領、国連軍は北朝鮮を占領し、中国との国境、鴨緑江に接近する。
中国軍、北朝鮮に潜入。毛沢東は第二期攻勢で国連軍を攻撃することを決定。
地形
朝鮮半島には、中央部に東と西を分ける太白山脈がある。朝鮮半島の北東部には、丘陵地帯にある人造湖の朝鮮総督府貯水池がある。この貯水池から南東の港町・興南まで道路が通じている。
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