デゴリー・プリースト(約1579–1621)は、1620年にメイフラワー号の航海に参加した乗客の一人で、植民地としての初期の合意であるメイフラワー・コンパクトに署名した人物です。プリーストは分離主義(非国教会派)の信徒で、宗教的自由を求めて故国を離れた人々の一員でした。メイフラワー号での彼の参加とコンパクトへの署名は、北アメリカにおける初期の自治形成に関わったことを示しています。
出自と職業
姓は「プリースト(Priest)」または「プラスト(Prust)」と表記されることがあり、これはイングランドのデボンやコーンウォール、さらにはロンドンで使われている一般的な姓です。プリーストはもともとロンドンの帽子職人(ハッター)として記録に残っています。生年はおよそ1579年とされ、当時の幾つかの法的書類がその年を示唆しています。
ライデンでの生活と家族
イギリス国内での分離主義の弾圧を避けるため、多くの信徒がオランダのライデンへ移住しましたが、プリーストもその一人として知られています。1611年に彼はサラ・ヴィンセントという未亡人と結婚しました。サラはメイフラワー号の乗客であるアイザック・アラートンの妹であり、この縁からプリーストは移住者コミュニティの中で人間関係を広げていきました。
1615年11月16日、プリーストはアイザック・アラートンやロジャー・ウィルソンとともにライデンの市民となったと記録されています。市民権取得は当時の移住者にとって居住や職業上の安定に重要でした。
ライデンでの記録と法的関わり
ライデンの記録には、プリーストが地域のさまざまな法的・私的な事柄に関与していたことを示す項目が複数残されています。1617年6月28日には、ある法的文書に関連して、ジョン・クリプス(Cripps)について「殴ったのではなく、彼のジャボット(襟元の装飾的なフリル)に触れただけである」とする内容に署名したという記録があります。ここでいう「ジャボット」はシャツの前身頃についているフリルのことで、当時の服装に関する言葉として使われています。
1618年1月18日付の別の文書では、デゴリー・プリーストが証人として名前を連ねています。この文書には仕立屋であるアイザック・アラートンの署名があり、内容は真紅のコートの費用についてのものでした。こうした記録は、プリーストが同胞たちの商取引や私的合意の場で信頼される存在であったことを示しています。
さらに1619年4月9日、プリーストとサミュエル・リーは、タバコの職人ニコラス・クラバリーのための書面に署名しました(この文書はクラバリーの善行を約束する内容)。クラバリーはおよそ1615年にライデンに到着し、ある期間プリースト所有の家に住んでいたとされています。また、1619年5月3日付の記録では、プリーストがリチャード・ティリルが署名した文書の目撃者となり、ニコラス・クラバリーがティリルの弟ジョン・ティリルの殺人とは関係がないという証言を行ったことが示されています。
メイフラワー号とその後
プリーストは1620年にメイフラワー号に乗り、ニューイングランドへ渡りました。船上での厳しい航海と新天地での困難な生活の中、彼はメイフラワー・コンパクトに署名して共同体の規律と自治を支持しました。メイフラワー・コンパクトは植民地の運営に関する初期の合意書として歴史的に重要です。
デゴリー・プリーストは1621年にこの世を去りました。多くの移住者と同様、厳しい環境や疫病、栄養失調などの影響で初期の植民地では多数が命を落としたため、プリーストもそうした犠牲者の一人であったと記録されています。
評価と遺産
プリーストは小さな身分ながら、分離主義コミュニティの一員として、そしてメイフラワー号の乗客として新世界の歴史に名を残しました。ライデンでの市民権取得や、複数の法的文書に関わった記録は、当時の移民コミュニティにおける日常的な相互扶助と法的手続きの実態を伝えます。メイフラワー・コンパクトへの署名を通じて、プリーストはアメリカにおける初期の自治と共同体形成に参加した人物として記憶されています。


