Dixon Stansbury Miles(1804年5月4日-1862年9月16日)は、アメリカ南北戦争における北軍の将校。第一次ブルランの戦いで師団を指揮した。ハーパーズ・フェリーの戦いでは、ハーパーズ・フェリーの連邦工廠の司令官を務めた。北軍守備隊が降伏した翌日、榴散弾の傷で死亡した。
経歴の概略
Milesは長年にわたる陸軍勤務の経験を持つキャリア軍人で、各地の駐屯や作戦に従事して軍務を全うした。南北戦争勃発時には北軍の将校として前線で指揮を執り、上級将校としての職務を務めた。
第一次ブルラン(第一次マンassas)での役割
1861年7月21日の第一次ブルランの戦いでは、Milesは師団(または旅団規模の部隊)を指揮し、戦闘に参加した。北軍の配置や指揮系統の混乱、兵站や訓練の不足といった当時の諸問題の中で、彼の部隊も激しい戦闘を経験した。
ハーパーズ・フェリー包囲と降伏
1862年9月、南軍の動きによりハーパーズ・フェリーが包囲されると、Milesは同地の連邦守備隊および連邦工廠(武器・弾薬庫)の司令官として防御を担当した。石壁の将(Stonewall)ジャクソンら南軍の包囲作戦により、ハーパーズ・フェリーの周囲の高地が敵の手に渡り、守備隊は不利な状況に追い込まれた。
包囲の末、守備隊は降伏するに至り、この降伏は当時の北軍側にとって重大な打撃となった。降伏した兵力は史料により差異があるが、おおむね1万人を超える規模であり、当時としては北軍の大規模な降伏の一つとされる。
負傷と死、および後続の論争
Milesは包囲戦の最中に砲撃を受け、重傷を負っていた。降伏した翌日、榴散弾の傷がもとで死亡した(1862年9月16日)。彼の指揮については戦後に強い批判が寄せられ、守備隊の配置や高地の確保を怠ったこと、さらには一部で「指揮官の状態(飲酒など)が適切でなかった」という主張も出た。しかし、この点については史料や証言に差異があり、後の歴史家の間では評価が分かれている。
評価と遺産
Milesの経歴は「長年の軍務を通じて培われた経験を持つ将校」という側面と、ハーパーズ・フェリーでの最終的な敗北とそれに伴う論争という側面の双方を含む。個人の最期は戦時の混乱と戦略的判断の難しさを象徴する一例とみなされ、南北戦争史における議論の対象となっている。
参考的年表(要点)
- 1804年5月4日:生誕。
- 1861年7月21日:第一次ブルランの戦いで師団を指揮。
- 1862年9月:ハーパーズ・フェリーの守備隊司令を務め、南軍に包囲される。
- 1862年9月15日:ハーパーズ・フェリー降伏(守備隊が降伏)。
- 1862年9月16日:榴散弾による負傷が元で死亡。
注:本稿では主要な出来事と論点を整理して紹介した。人物の詳細な経歴や各種史料の検証については、専門の史料や一次資料を参照されることを推奨する。

