メリーランドキャンペーン(1862年9月4日~9月20日)は、一般にアンティータムキャンペーンとも呼ばれ、南軍のロバート・E・リー将軍がウェストバージニア州とメリーランド州で展開した一連の作戦です。これは南北戦争において、北軍にとって重要な転機のひとつとされます。リーは自軍を北部(メリーランドやペンシルベニア)へ侵攻させることで、ワシントンD.C.やボルチモアの都市を威嚇し、南部の政治的・外交的勝利を狙っていました。リーは連戦連勝で南部がイギリスやフランスの承認を得て、南部の正当性を国際的に認めさせられると考えていたほか、勝利があればリンカーン政権に和平を迫る好機になるとの期待もありました。
背景と目的
リーの侵攻には複数の目的がありました。軍需補給のための物資調達や北部の農村地帯への略奪、そして南部の士気向上と北部に対する政治的圧力を意図していました。また、戦果をあげて欧州列強の援助や承認を引き出そうという外交的狙いもありました。対する北軍はアメリカ陸軍ポトマック軍の指揮官ジョージ・B・マクレラン(George B. McClellan)らが迎え撃ちましたが、機動と情報戦が勝敗を左右しました。
主要な戦闘と経過
- 情報戦の転機(Special Order 191):リーの作戦書とされる文書(いわゆる「特別命令191号」)が北軍の手に渡ったことがあり、これが北軍に一時的な優位を与えました。ただし、北軍の司令部は有効活用に消極的で、追撃を迅速に行えなかった側面があります。
- サウス・マウンテンの戦い(South Mountain)(9月14日): 補助的な前哨戦で、北軍の進攻を遅らせるために行われた局地戦。これによりリーの部隊は一時的に分断されました。
- ハーパーズ・フェリー(Harper's Ferry)占領と降伏(9月12日~15日): 南軍の司令官の一人、トマス・“ストーンウォール”・ジャクソンが率いる部隊がハーパーズ・フェリーを包囲し、約1万2千名の北軍守備隊が降伏しました。これは戦略的に重要な勝利でした。
- アンティータム(Sharpsburg)の戦い(9月17日): キャンペーン中の主戦場であり、1日で行われた最も激しい戦闘の一つです。戦闘は凄惨を極め、両軍の損耗は非常に大きく、合計で約2万3千名(おおよそ北軍が約1万2千名、南軍が約1万名前後)の死傷者が出たと推定されます。戦術的には決定的な勝敗はつかなかったものの、リーは戦後に軍を撤退させ、北軍側が戦域を確保したため、戦略的には北軍の優勢とみなされました。
結果と影響
アンティータムの戦いの後、リーの軍はポトマック川を越えてバージニアへ退却しました(9月18日以降)。戦闘そのものは引き分けに近いものの、リーの侵攻を阻止したことで北軍側が優位を得たと評価されます。この「勝機」が生まれたことで、エイブラハム・リンカーンは1862年9月22日にエイブラハム・リンカーン名義での「予備宣言(予備的な奴隷解放宣言)」を出すための政治的余地を得ました。これにより戦争の目的が単なる国家の存続から「奴隷制の廃止」を含むものへと明確に拡大し、イギリスやフランスなどの欧州列強が南部を承認する可能性は大きく後退しました。
また、戦後の追撃を躊躇した北軍指揮官に対する不満が高まり、マクレランはのちに司令官職を追われることになります。アンティータムは戦術的な教訓、政治的効果、そして人命を巡る悲惨さを広く印象付けた戦役でした。
歴史的評価
メリーランドキャンペーンは南北戦争全体の流れを変えた重要な出来事とされています。戦場の死傷者の多さと、戦争目的の転換(奴隷制への挑戦と戦争の国際的性格の変化)は、その後の戦局と国内外の政治判断に大きな影響を与えました。アンティータムの戦場は現在、保存されており、戦争の記憶と教訓を伝え続けています。




