エドワード・フラー(1575年頃~1620/21年冬)は、1620年のメイフラワー号の航海に参加した人物である。彼はメイフラワー号のコンパクトに署名した。フラーは、乗客がプリマスの新居住地に上陸した直後に妻とともに死亡したが、息子たちは生きていた。フラーは、1575年9月4日にイングランドのノーフォークで洗礼を受けた。彼は肉屋のロバート・フラーの息子だった。
初期の経歴
エドワード・フラーのイギリスでの生活については、ほとんど知られていないが、記録からはノーフォーク生まれでロバート・フラーの子として育ったことが分かる。1575年の洗礼記録が残っているため生年はおおむねその頃と推定される。私生活については不明点が多く、妻の名前は史料に明確に残されていない。1605年に生まれたマシュー(Matthew)、1608年に生まれたサミュエル(Samuel)の2人の息子が確認されており、1620年の航海時にはそれぞれ約15歳と約12歳だったと考えられる。
ライデンでの生活と分離主義
フラーと彼の兄弟は、他の多くのイングランド分離派と同様に、しばらくライデンに住んでいた。分離主義者とは、英国国教会を信じない人々のことで、宗教的自由を求めてオランダに移住したグループが多かった。ライデンでは宗教的な信仰を比較的自由に実践できたが、経済的・将来に関する制約や子どもたちの教育問題などから、新天地での共同生活を求めて新世界への渡航を決めた者たちがいた。
メイフラワー号の航海とプリマス到着
エドワード・フラーは1620年のメイフラワー号の乗客として新世界へ向かい、上陸後に乗組員と入植者たちが共同で政治的・社会的ルールを定めるために起草・署名したメイフラワー号のコンパクトに署名した。コンパクトは1620年11月に署名されたと伝えられ、入植地の統治と秩序維持を目的とした最初期の自治協定の一つとされる。
プリマスでの冬と死去
プリマス到着後の最初の冬(1620/21年)は極めて過酷で、寒さ、栄養不足、感染症により多数の入植者が命を落とした。エドワード・フラーとその妻も、この最初の冬の間に亡くなったと記録されている。妻とともに短期間で死去したため、二人はコミュニティに長く残ることはかなわなかった。多くの初期犠牲者と同様、埋葬は簡素に行われ、詳細な墓地記録が残っていない場合が多い。
家族と遺産
エドワードの死後、息子たちマシューとサミュエルは生き残り、プリマス植民地の初期社会の一員として成長していった。父母が早くに亡くなったことは大きな試練だったが、彼らの存在によりフラー家の系譜は新世界で続いた。エドワード・フラー個人についての記録は限られるが、彼がメイフラワー号の一員として新開地形成に参加し、コンパクトに署名したことは、初期アメリカ植民史の一断面を示す重要な事実である。
注記:エドワード・フラーに関する多くの細部(妻の氏名や埋葬場所など)は一次資料に乏しく、研究者の間でも不確かな点が残っている。既存史料に基づく要点をここにまとめた。


