1917年の二月革命(ロシア語:Февральская Революция, Fevralskaya Revolyuziya)は、ロシア帝国の王政を終わらせる革命であった。ツァーリ・ニコライ2世に代わって臨時政府が誕生した。これがロシア革命の始まりである。2月革命の背景には、第一次世界大戦の名残があり、経済的な困難や人々の間に緊張が走った。
概説と暦の注意
当時のロシアではユリウス暦(旧暦)が使われており、革命は旧暦の2月に始まったため「二月革命」と呼ばれる。西欧で一般的なグレゴリオ暦では同じ出来事は3月に起きており、日付の違いに注意が必要である(旧暦2月23日=新暦3月8日から始まり、翌月にかけて収束した)。
主な原因
- 戦争の疲弊:第一次世界大戦での長期化と多数の戦死・負傷は、前線の士気と後方の生活を共に圧迫した。軍需の逼迫、輸送の混乱が深刻化した。
- 経済・社会の混乱:食糧不足、インフレ、工場閉鎖や賃金の低迷により都市労働者や下層民衆の生活は悪化した。
- 政治的不満:専制政治に対する不満と自由・参政権を求める声、さらに各地での労働争議やストライキが広がっていた。
- 即時的誘因:1917年3月(新暦)の国際女性デーにあたる蜂起やパトゥィーロフ(Putilov)工場などでのストライキが直接的な引き金となった。
革命の経過(要点)
首都ペトログラード(旧名サンクトペテルブルク)での労働者の大規模ストやデモが続き、警察・行政の統制が効かなくなった。デモに対する治安部隊の発砲や弾圧が混乱を拡大させる中、兵士の一部が反乱し、鎮圧に協力しなくなった。軍隊の離反が決定的となり、街頭は事実上革命勢力の手に渡った。
混乱の中で議会・知識層を中心に新たな政権を求める動きが強まり、自由主義者や立憲民主党(ケーデー)などが中心となって臨時政府が組織された。一方で労働者・兵士代表は独自の代表機関としてペトログラード・ソビエト(兵士・労働者代表ソビエト)を形成し、両者の間で実権を巡る「二重権力(デュアル・パワー)」の状態が生じた。
最終的にツァーリ・ニコライ2世は退位を余儀なくされ(旧暦3月2日=新暦3月15日)、ロマノフ朝による専制は終焉を迎えた。
臨時政府とその課題
- 臨時政府の成立:立憲的・自由主義的な政治家らが中心となる臨時政府は、立法機関の整備や市民的自由の回復を宣言した。
- 二重権力の継続:臨時政府は形式的な行政権を握ったが、実際の民衆・兵士の支持を受けるソビエトが並存したため、政策の実行力は限定的だった。
- 戦争継続の判断:臨時政府は参戦継続の立場を取ったため、戦争の負担が民衆と兵士に再びの苦難をもたらし、支持基盤の弱体化を招いた。
主要な勢力と人物
- 臨時政府側:自由主義的指導者や旧体制の中道・右派を含む政治家(初期にはプリンス・リヴォフらが関与)
- ソビエト側:労働者・兵士代表、社会革命党やメンシェヴィキ、後に影響力を強めるボリシェヴィキ(ただしボリシェヴィキ自身は二月革命の直接的主導者ではなかった)
- ウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ指導者は当時国外におり、十月革命までに立場を整え帰国する。
結果と歴史的意義
- 帝政の崩壊:ロマノフ朝の専制が終わり、政治的自由や結社の自由が拡大した。
- 制度的混乱の継続:二重権力の下で有効な改革が進まず、戦争継続による困窮が増大したことが社会的不満を残した。
- 十月革命への橋渡し:二月革命は立憲的・中道的な変革をもたらしたが、現状の混乱と戦争継続が急進的な勢力(ボリシェヴィキ)に支持を与え、同年後半の十月革命へとつながっていく。
補足事項
死者数や具体的な被害の集計は地域や資料によって差があり、評価は研究によって分かれる。二月革命は群衆行動、軍隊の離反、政治エリートの対応不足が複合して起きた事件であり、ロシア現代史における転換点と位置づけられる。