概要

ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(1688年6月10日 – 1766年1月1日)は、イングランド王ジェームズ2世モデナのメアリーの長男であった。名誉革命によって退けられたカトリックの王位継承者として、彼はステュアート家を復位させようとするジャコバイト運動の中心人物となった。支持者たちは彼をイングランドとアイルランドのジェームズ3世、スコットランドのジェームズ8世とみなしたが、反対派は皮肉を込めて彼をオールド・プリテンダーと呼んだ。

請求と幼少期

父の失脚直前に生まれたジェームズにとって、その誕生とカトリックとしての養育は、ジェームズ2世を権力の座から追い落とした危機の中心にあった。父の死後、彼はイングランド、スコットランド、アイルランドの王位に対する世襲の権利を主張し、いくつかの外国宮廷では正式に承認も受けた。彼の大義は、王朝の原理、宗教上の忠誠、そしてハノーヴァー朝の下で成立したプロテスタント体制に反発する人々の抵抗に支えられていた。

亡命とジャコバイト運動

ジェームズは生涯の多くを、同情的なカトリック君主の宮廷で海外に暮らした。彼はフランス王ルイ14世によって王として宣言され、のちにローマにステュアート宮廷を設けた。亡命先から、支持者たちは彼の名の下にいくつかの蜂起を起こし、なかでも1715年のジャコバイト反乱、さらに息子チャールズ・エドワード・ステュアートが率いた1745年蜂起がよく知られている。断続的な外国支援と、時折の軍事行動があったにもかかわらず、これらの試みはステュアート家を復位させるには至らなかった。

家政、継承、死去

亡命中のジェームズは、イギリス諸島のジャコバイトにとって結集点となる王室家政を維持した。彼は結婚して子をもうけ、その子らが彼の死後も王朝の請求を継承した。彼は1766年にローマで死去し、その後は息子が主要なジャコバイト請求者となったが、その時点ではイギリスにおける政治体制を覆す軍事力はすでに大きく失われていた。

遺産と呼称

  • ハノーヴァー朝に対する王朝的・宗教的反対の象徴。
  • 史学ではオールド・プリテンダーとして知られ、ジャコバイト側は彼に在位名を用いた。
  • 亡命宮廷はヨーロッパ外交にも影響し、19世紀までステュアート家の伝統を保った。

ステュアート家の請求と、より広い政治的背景についてさらに知るには、同時代および後世の記述が、イングランド、スコットランド、アイルランドの王位請求が18世紀を通じてどのように争われたか、またジャコバイトの遺産がイギリスの文化と記憶にどのような影響を残したかを扱っている。