メアリー・オブ・モデナ(Maria Beatrice Eleonora Anna Margherita Isabella d'Este; 1658年10月5日 [O.S. 25 September] - 1718年5月7日 [O.S. 26 April] )は、イングランド・スコットランド・アイルランドの王妃であり、ジェームズ2世の2番目の妻である。メアリーは生涯を通じて堅実なカトリック教徒として知られ、1673年にヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)と結婚した。ジェームズはチャールズ2世の弟であり、メアリーは夫に深く仕える一方で宮廷政治にはあまり関心を示さなかった。夫妻の間には多くの流産や早世した子があったが、成人した子としては娘のルイーズ・メアリーと、後に王位請求者となったジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートがいる。
出自と結婚まで
メアリーはイタリアのモデナ公国の王女として生まれ、父はモデナ公アルフォンソ4世、母はロレーナ出身のラウラ・マルティノッツィ(マザラン枢機卿の姪)であった。イタリア貴族として育てられた彼女はカトリック信仰と慎み深さを重んじる教育を受け、結婚によってイングランド王室に迎えられてからもその信仰と礼儀正しさが評判となった。
国王妃として・出産とスキャンダル
メアリーの最も有名な出来事は、1688年に生まれた長男ジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートの誕生をめぐる疑惑である。誕生時、多くのイングランド人や議会関係者は「この子は実際にはメアリーの子ではなく、暖めた盆(ウォーミングパン)で密かに産室に運ばれた赤ん坊である」という噂を流布し、これが広く信じられた。公会議(王室委員会など)の調査はこの説を否定したが、疑念と反感は鎮まらず、反カトリック感情と相まって1688年の栄光の革命の一因となった。栄光の革命の結果、ジェームズ2世が退位させられ、王位は彼の長女の一人であるメアリーとその夫のウィリアム3世(オレンジ王)に移った。
亡命とフランスでの生活
退位後、メアリーはジャコバイトの支持者たちから「水の上の女王」と呼ばれながらフランスに亡命し、フランスのルイ14世から与えられたサンジェルマン=アン=レイ城で家族とともに暮らした。フランス宮廷の廷臣たちはメアリーの穏やかで謙虚な態度を好意的に受け止めたが、夫ジェームズ自身は複雑な感情を抱いていたとされる。夫の死後、メアリーは信仰により一層傾倒し、シャヨーの修道院(シャヨー修道院)の修道女たちと多くの時間を過ごした。
摂政としてと家族の最期
1701年にジェームズ2世が死去すると、ジャコバイトたちは息子のジェームズ・フランシス・エドワードを新たな王(ジャコバイトの伝統では「ジェームズ3世」)と見なした。息子が未成年であったため、母であるメアリーが摂政として政治的な役割を果たす期間があり、王位請求の正当性を主張する活動に関与した。しかし、ユトレヒト条約(1713年)によりフランスはジャコバイトの王太子を国外退去させることを余儀なくされ、メアリーの家族はフランスにおいても状況が不利になった。娘のルイーズ・メアリーは若くして疫病により亡くなり(歴史的記録では天然痘での死とされることが多い)、メアリーにとって大きな痛手であった。
晩年と死後の評価
メアリーは1718年に乳がんのためサンジェルマン=アン=レイで死去した。生前は宗教的で慎ましい人物として知られ、フランス滞在中の多くの人々からは親切で思いやりのある女性として記憶されている。ジャコバイト支持者にとっては忠実な母であり象徴的存在であったが、イギリス国内では彼女を巡る出産疑惑や宗教問題が政治的対立を激化させた点も忘れられない。
遺産:メアリー・オブ・モデナは、17世紀末から18世紀初頭にかけてのイギリス政治において、宗教問題と王位継承をめぐる争いの中心人物の一人であった。彼女の人生は、カトリック信仰、王権と議会の対立、そして亡命生活によって特徴づけられる。

